【メッセージ】分断を超えて

2023年12月10日

(ヨハネ一4:1-6, 出エジプト3:1-10)

イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。あなたがたは、こうして神の霊を知るのです。(ヨハネ一4:2)
 
◆オフコース
 
オフコース。懐かしく思う方もいるでしょう。若い世代は知らないかもしれません。但し、小田和正と聞けば、音楽に関心のある人は、分かる可能性が増えるでしょう。この秋、76歳となりました。いまなおステージで歌うばかりか、走り回りもします。テレビドラマなどの主題歌やコマーシャルの歌にも数々の作品を出しています。せつない恋心を歌う76歳ですが、左卜全さんが亡くなったのが77歳であると知ると、あの老人の姿と小田和正との姿が、どうしても横につながらないのは仕方がないでしょうか。
 
コマーシャルソングといえばオフコース、ということは、ファンでなければご存じないかもしれません。シャンプーなどの髪に関するものからスキーなど、数え上げられないほどありますが、たぶん「明治ブルガリアヨーグルト」なら、お耳に残っているのではないかと思います。福岡のRKBラジオのジングルで長い間オフコースのコーラスが流れていたのを覚えている方も、地元には少なくないでしょう。
 
デビュー後間もなく三人となりますが、すぐに二人での活動となります。小田和正と鈴木康博の二人が、多重録音で絶妙なハーモニーをつくりました。鈴木康博もまた、いまもなお音楽活動をしていますが、ラジオ番組ももっています。SNSに挙がったその出で立ちは、もうすっかりおじいさん。小田も同じ歳ですが、小田の方が少し若く見えるような気もします。
 
私は、オフコースによって、ポピュラー音楽を知ったと言えます。レコードから楽譜を起こし、実践的に楽曲の構成やコード進行を学びました。詞のほうからも、なにげない言葉を並べることで、胸を揺さぶる歌詞が生まれることを教えてもらいました。中学から高校にかけて、千の詞を書き、その多くに曲をつけました。このことは、後に賛美の歌が生まれる素地となりました。
 
語ればきりがありません。が、今日の目的は、そのオフコースという名前の意味を、お知らせしたかっただけです。いろいろ背景はありますが、ある集団に使われていた響きをもらいました。「of course」は英語で「もちろん」の意味ですが、よく見ると、彼らのロゴは違います。「Off Course」です。こうなると、「コースを外れて」という意味に聞こえます。彼らは、確かにコースを外れました。二人は横浜の高校で出会い、音楽で結ばれました。が、大学は、東京と東北へと別れました。それぞれ、国立大学でエリートコースに進んだとも言えます。特に小田は、東京に戻って早稲田大学にて修士号も取得しています。
 
しかし、そうやって用意されたも等しい、安定した道から外れて、二人は音楽の世界に進みます。道を外れたのです。
 
◆モーセもオフコース
 
かつて一時期、「指示待ち症候群」という言葉が取り沙汰されたことがあります。若者が、そして学生や生徒、児童までもが、何か指示があるまでじっと待つ様子を、いくらか揶揄も込めて言われたのだと思います。自分から、どうすればよいかを考えて行動することができない、ということでした。それは、新たな道を開拓する精神に乏しいことのほかに、自分でやって間違うこと、責任を負うことを避ける心理をも含んでいたでしょうか。いまもなお、その心理は拡大してしているように、私は感じます。
 
確かに、誰かの言うことに従っておけば、自分の責任にはなりません。すると、神に従っておけば自分の責任にはならない、だから神を信じる、ということになるのでしょうか。それは、皆さんの考える課題にしておきましょう。
 
決められたコースを進むのは、確かに楽と言えば楽です。道を外れるのには、勇気が必要です。聖書には、そういう勇気あるコース外れの人間が、描かれているでしょうか。預言者たちは、たいていそうだったかもしれません。ダビデ王も、よく見ると相当にコースアウトしています。しかしまた、突如神に行く手を遮られ、以後の人生がまるで違うものになったという点では、パウロほど人生が狂わされた人はいないかもしれません。
 
人生が変わった意味では、モーセもそうでした。しかもモーセの場合は、本当に「道を外れた」と描写されている人物なのです。それは、エジプトの王家に拾われたモーセが、ある殺人を犯して、遊牧民族の中に逃亡して生活している時のことでした。  
1:さて、モーセはそのしゅうと、ミデヤンの祭司エトロの羊の群れを飼う者となった。そして、群れを荒れ野の奥に導いて、神の山ホレブに来た。
2:すると、柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。彼が見ると、柴は火で燃えていたが、燃え尽きることはなかった。
3:そこでモーセは言った。「道をそれてこの大いなる光景を見よう。なぜ柴は燃え尽きないのだろう。」
4:主は、彼が道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から呼びかけ、「モーセ、モーセ」と言われた。彼は「御前におります」と言った。
 
神が不思議な現象を起こします。乾燥地で柴が自然発火することはあり得たとしても、燃え尽きないのは不思議でした。モーセは、そこに何かを感じ取ります。そこで「道をそれてこの大いなる光景を見よう」と、そこへ近づくのでした。すると、そこで神の呼びかけを聞くのです。
 
ここからモーセの人生は一変します。殺人からの逃亡もコース外れかもしれませんが、それとは比較にならないくらい、壮大なドラマの主人公へと変貌してゆくのです。何十万人というヘブライ人の指導者となって、彼らをエジプトからイスラエルの地へ連れて行く旅を実行するのです。
 
モーセほどのリーダーにはなれなくても、クリスチャンもまた、コースアウトしたとは言えないでしょうか。神に出会い、出世街道とは違う人生を歩んだ例が多々あります。裏街道を歩いていた人が、牧師へと転身したような例もあります。また、私のように、神の前に引きずり出されたことに始まり、哲学を突き進む方向には進めなくなった人間もいるわけです。
 
◆聖なる土地
 
それほど大きな転換が、誰にも必要であるわけではありません。なんとなく、聖書に心惹かれたことがきっかけで教会に行くようになった、という人もいるでしょう。ふとした友人の誘いで最初に教会に行ったら心地よかった、という人も少なくありません。教会の内部は、外からは見えません。いえ、会堂の眺めのことではありません。そこで何が日曜日毎に行われているか、そこにいる人の雰囲気はどうなのか。それは外からはまるで分からない、ということです。だから、礼拝の質を変えるのではなくとも、外から分かるような、オープンなものにすることは、大切な伝道ではないか、と私は思っています。
 
聖書に反感を覚える人もいる中、「キリスト教には何かがある」と感じる人もいます。近年は、宗教的犯罪や虐待も報道され、印象が悪くなっているかもしれませんし、「宗教2世」という言葉が、ネガティブな方向に広まっているのも事実です。そういう中で、聖書そのものには何か魅力を感じる人は、一定数いるものだろうと思うのです。もちろん、宗教2世にあたる人が、皆不幸であるわけではありません。が、心に傷を負わせることについては、教会もナーバスでありたいと思います。
 
3:そこでモーセは言った。「道をそれてこの大いなる光景を見よう。なぜ柴は燃え尽きないのだろう。」
 
モーセも、燃える柴を見て「何かある」と思ったに違いありません。コースアウトして、柴に近づきます。ちょっとした勇気が必要だったかと思いますが、そこから神が「モーセ、モーセ」と二度名前を呼びます。神が人の名を二度呼ぶのは、聖書では大きな意味のある呼び方です。モーセはこの声に仰天したとは書かれておらず、「御前におります」と返答します。ずいぶん肝の据わった態度ですが、それが聖書文化というものなのでしょうか。
 
5:神は言われた。「こちらに近づいてはならない。履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である。」
 
履き物を脱ぐ、あるいは上着を脱ぐというのは、聖なる存在を前にしてひれ伏すような意味合いのある行為だとされます。神は、モーセの立つ場所を「聖なる土地」だと教えました。これは突飛な発言です。この後、神は自らの正体を明かし、エジプトにいるイスラエルの民の苦難から救うこと、そのためにモーセをその役割に任ずることを告げるのですが、だとしても、モーセの立つ場所が「聖なる土地」だとということは、直接関係がないように見えます。
 
「聖なる」というのは、聖書ではひとつの鍵になる言葉です。「聖書」というのは、古の人々が使っていた言葉ではなく、新約聖書に「聖書」と日本語で訳されている語の中には「聖」という意味合いは含まれていません。「聖霊」と訳されている語については、確かにこの「聖」という語が使われています。「聖なる」という形で、神の性質を説く場合も多々あるわけです。
 
それは、「分離」の意味合いを含むものだ、とされています。特に神によって離されるというケースから、いかにも「清い」という感覚が強調されますし、それでよいのですが、原義は「離れる」ことです。普通とは違う「特別だ」という捉え方をしてよい場合もあろうかと思います。たとえば、「聖なる献げ物」というのは、普通のとは違う、特別な献げ物である感覚が伴うと理解してもよいように思います。
 
神はモーセに、いまあなたは特別な場所に立っている、と教えたのかもしれません。神の前に出たモーセは、普通の生活とは違う、特別な場面に遭遇しているのです。確かに、これはモーセの人生を変えました。ここから、モーセは、それまでのモーセではなくなります。
 
それは、この世の道、人間社会からコースアウトして、この世と分かたれることを意味する、とも言えます。「分離」です。しかし、漢語はこれについて、別のニュアンスをもつ語をもっています。それは「分断」です。
 
◆分断を起こした者
 
ここから、「分断」という語に、少しばかり思いを馳せてみたいと思います。というのは、現代の世界において、この「分断」というものが、深刻な問題となっているように思われるからです。社会の中の小さな分断もさることながら、国際的に「分断」が指摘され、重大な争いへと展開することが懸念されるのですから、本当に深刻です。
 
分断は、自分と異種のものに対する拒絶が、互いになされている状態です。それは対立であると共に、あらゆる対話を拒む場合があり、互いの言明が、益々事態をこじらせてゆくことになります。実際、戦禍を起こしているのも事実ですし、為政者のほんのひとつのコマンドで、世界が破滅することすらあり得るシステムが、世界にはもう出来上がっているのは事実です。
 
社会には、経済的な分断もあります。貧富の差は、さらに拡大しています。聖書は金に仕えることを戒めていますが、まことに金が人生のすべてであるかのような思いなしが、社会に拡がっているように思われてなりません。人の心の冷たさが、金を通じて感じられるような気もします。そして政治のすべてが、経済であるかのような世相からしても、経済的な分断は影響が大きいものです。
 
社会的な分断も、人の愛を冷たくします。いわゆる「レイシズム」に代表される人種的な偏見は世界からなかなかなくなりません。日本にはないかのように勘違いしている人もいますが、いままたとある政治家が、そのレイシズムを表に出して自分は正しいと言い張っていることが話題になっています。一部の外国人に対するヘイトスピーチが、SNSという場で気軽に飛び交っていることも確かです。
 
そもそも、自分は差別などしていない、と主張する人こそが、悪質な差別主義者である、というケースが、心ある人によって指摘されているのです。もちろん、私はそのことを私自身にまず適用しようとしています。それでもなお、避けがたく差別やレイシズムは人に巣くうものだと思われます。
 
こうした分断の当事者、つまりそれを引き起こす者がまた、自分は常に正義であり、そうした判断は些細なこととしか自覚していないことが、解決をますます遠ざけています。いえ、それは教会にいる人間も、他人事ではありません。信仰の形によっては、「救われていない人々」と教会外の人たちを蔑んでいることも、ままあります。「未信者」も抵抗がありますが、「ノンクリ」などと気軽に呼ぶ人がいる気持ちが、私には理解できません。雑誌『福音と世界』にここのところ連載されている「教会におけるマイクロアグレッション」という記事は、実に深刻な指摘をしています。
 
けれども、キリスト教は、互いに平和であるべし、と聖書から聞いたのではなかったのでしょうか。歴史の中でも、なんとか平和をつくろう、と神の名の下に願い続けてきたのではなかったのでしょうか。
 
キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました。(エフェソ2:14-15)
 
こうした聖書の言葉に励まされて、私たちは、平和を求めている自分たちを意識します。しかし、「平和運動」の二つの組織が意見が合わず分裂する、といった皮肉なことが起こるように、キリスト教世界ほど、互いに分かれ、分断してきた組織はないようにも思えませんか。歴史は、同じキリスト教徒同士の争いが散々繰り返されてきたのではないでしょうか。また、キリスト教が優位な世界をつくったら、今度はそうでない国や民族に対して、自ら分断をつくってきているとは言えないでしょうか。権力を手にした教会と、聖書に基づいていると自認する権力が、差別を推し進め、正義の名のもとに残酷な仕打ちをしたり、戦争を起こしたりしたのではないか、もっと振り返る必要があると思うのです。
 
◆分断は現にある
 
新約聖書の時代、ユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配を受けていました。属国と言えばよいのでしょうか。君主を立てたにしても、傀儡政権であり、帝国の権力のもとに初めて存在を許される情況になっていたように思われるのです。しかし、これをローマ帝国が偏狭で圧政的だ、と決めつけることは禁物です。あれほどの広大な帝国を築くということは、周辺地域については、寛容な政策をとっていたということを意味します。むしろ、ユダヤ人社会のほうが、宗教的に非寛容であったことで、帝国の政治と衝突した、と説明したほうが適切である可能性もあります。
 
それはユダヤ人が頑なで悪いということなのか。これも問う必要があります。信仰というものには、どうしてもそういう側面があるからです。そうなると、本来聖書は「分断」を推進するものであったのかもしれません。「聖」には「分断」という意味が隠れているのですから、この神だけ、というあり方は、別の社会とははっきりと離れていないといけなくなるのです。
 
このことは、多分にキリスト教についても振り返る必要のある見方です。それは、迫害されるのもある意味で必然的だという肯定的な考えにもつながりますし、他方、だからやはりキリスト教は争いの基であるという否定的な考えにもつながります。これは、決していまこの場で単純に結論づけるべき問題ではありません。私たちはいま神を礼拝しています。神の言葉は私たちに何を投げかけているか、聞くことが大切です。そして、いままで見えていなかった神の言葉の側面に気づかせて戴きましょう。
 
聖書の「分断」は、私たちの世の中の社会的な分断とは、たぶん違うのだろうと思います。キリスト教のグループが分断して争ってきたことも、聖書が告げる「分断」とは直接関係がないのだろうと思います。だからと言って、弁神論のようなことをしようとしているのでもありません。聖書がしっかりと分離していたのはどういうことか、私の拙い案内で申し訳ないのですが、想起していこうと思います。
 
聖書にお詳しい方でないと、次に触れる点は、お分かりになれないかもしれません。ご容赦ください。一つひとつを丁寧に説明する時間がありませんので、矢継ぎ早にご紹介します。聖書をよくお読みの方は、イメージが思い起こされるだろうと期待します。
 
洗礼者ヨハネとイエス・キリストとは、明確に区別されていました。確かに洗礼者ヨハネは、キリストの出現の先導者です。人々に悔い改めの洗礼を授け、次に登場するイエスの言葉を聞く準備を、人々の間にしていました。非常に有名だったのだろうと思います。しかし、ヨハネとイエスとの間には、超えられない溝があるのです。
 
山羊と羊とは、別々の運命を言い渡される象徴でした。マタイ25章で、裁きの峻別の鋭さを示すために、イエスが語っています。
 
そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。(マタイ25:32-33)
 
自分を神とすることと、キリストに従うこととは、明確に分けるべきです。これは大きなテーマなので、ますますわずかに触れることしかいまはできませんが、「キリストに従う」と口では言いながら、実は自分の腹の内を実現するために、キリストを利用する、ということが人間にはあります。結局、自分を神としているだけです。また、組織の側が「キリストに従え」と信徒個人に迫ることによって、人々の心を支配することは、いまもなされています。その組織側自身は、決してキリストに従ってはいないのです。
 
そのように自分を神とする者について、聖書は「偽キリスト」とか「反キリスト」とか呼んで、注意を喚起しています。「偽預言者」という呼び方で指摘することもあります。反キリストとキリストとの分断は、極めて重要です。ヨハネの手紙第一の4章は、それが
 
1:愛する人たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て行ったからです。
2:イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。あなたがたは、こうして神の霊を知るのです。
3:イエスを告白しない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。あなたがたはその霊が来ると聞いていましたが、今やすでに世に来ています。
 
この手紙では、「反キリスト」について、「御父と御子を否定する者」つまり「主なる神とキリストを否定する者」と定義していますが、それはつまり自分を神とするというように言ってもよいだろうと思います。神が人となったことを、受け容れられないのです。
 
ここには、一種の二元論があります。そんなに単純に分けてよいのかどうか、人間は疑うかもしれません。しかし、神の業の是非を人間の論理で問題にするよりは、私たちはもっと建設的なことに目を向けましょう。
 
◆分断すべきもの
 
「分断」すると、言葉が通じなくなります。同じ言葉を表面的には使っていても、別の意味で理解していますから、実は全く通じていません。それどころか、互いに同じ言葉を使っていますから、互いに理解し合えたと一度は喜ぶわけです。それだけに、それが違ったことが明らかになったとき、よけいに激しい対立になるかもしれません。
 
ひとつの知恵として、こうした「分断」そのものをすぐさま否んで、それをなかったかのように、あるいははぐらかすように扱ってはならない、という提言をします。自分たちは互いに仲良しではないか、仲良くやろうではないか、と歩み寄る姿勢をとるのは、実は、立場の強い者がもちだしたがる論理です。いまは詳しくは申しませんが、このからくりについては、私たちはもっと知っておくべきだと考えています。
 
一方、相手を一刀両断するかのように、もうどうしようもない奴だ、と決めつけるのも、褒められたものではないでしょう。相手を分断して退けたかのように見えて、実のところ、自分自身が他から分断され、切り離されて居場所をなくすことがしばしばあることに、気づかねばならないのです。
 
そう、分断するのは神なのであって、私たち一介の人間がするのではありません。私たちが自分で線引きをして、決めつけようとするから、問題が起こるわけです。私たちは神による分断について、決定権はありません。私たちは、される側であって、する側ではないのです。
 
ということはまた、この「分断」は確かにあるのだ、ということも確認しておくべきです。そんなものはない、と言うこともできません。神が分離するというのであれば、それはあるのでしょう。だから、ヨハネの手紙にも、自分たちが「神から出た者」だと言うのです。それは、自分が神の側に自動的に立っている、と勝手に宣言することではありません。神が備えた切り分けの中から、憐れみと共に救い出された者だ、と言っているに違いありません。
 
「分離」や「分断」そのものが、即刻悪いわけではないのです。
 
◆道を外れて
 
さて、キリストが、人となったことを噛みしめる季節を、私たち人間の知恵ですが、備えました。北半球では冬です。南半球の人々は、別の趣の中でこの時期を迎えることになるのでしょう。そこへの配慮も大切ですが、いまは日本中心で語ります。それで、ものの動きが活発でない冬の情景を思い浮かべることをします。静かに、救い主がこの世界に来てくださった、ということを思います。
 
イエスの誕生の物語を、私たちはいま追いません。しかし、とにもかくにも、この世に救い主として来たこのイエスの誕生がありました。その記事はマタイとルカだけが書いていますが、その誕生の経緯は、なんとも道外れである、コースアウトすることばかりだ、と言えます。まともな生まれ方をしていません。その経緯もめちゃくちゃです。生まれた場所も、王たるに相応しい場所ではありませんでした。イエスのその後の伝道の旅では、神の力を発揮しましたが、この世のエリートたちの反抗を受けました。そして多くの人間たちを巻き込んで、彼らの論理からすれば、正当に、殺害されたのです。なんと惨めな人生でしょうか。なんと酷い人生でしょうか。
 
そのイエスを慕うのがキリスト者だとすると、キリスト者もやはり、そもそもが道を外れているのです。
 
そこには大路が敷かれ/その道は聖なる道と呼ばれる。/汚れた者がそこを通ることはない。/それは、その道を行く者たちのものであり/愚かな者が迷い込むことはない。(イザヤ35:8)
 
「そこ」というのは、熱した砂地であり、道ならぬ荒野です。イスラエル民族が、捕囚となった先のバビロンから、戻ってくる時の様子を、イザヤは描いています。捕囚されていたイスラエルの民は、道ならぬところに道をつくって歩いた、と理解できます。私たちキリスト者も、ありふれた場所に用意された道を通って喜んでいる場合ではありません。キリスト者は、何らかの形で道を外れているのです。
 
この時期、イエス・キリストが人となって生まれたことを思い起こす時期であるのならば、私たちにはそのイエスが第一であることが必要です。ほかのものを神としてはならないのですから、私たちは聖書の神に信頼を置くだけです。但し、父なる神はこの目には見えません。見える形で、私たちは神の子を知る恵みの中にいます。イエス・キリストです。イエスを見上げながら、イエスを第一として崇めるのです。
 
当初、イエスは、人間と離れた存在だったはずです。人間とイエスとは、分断されていたのです。しかし、イエスの方から、その分断を破って、私たちのところに現れました。人となりました。なんとも無謀な計画です。とんでもないことをしてくださったのです。
 
神と人とは、分断されています。分かれています。それが聖書の世界観です。人間は神になりません。そういう存在をしか、神とは呼びません。しかし、神の方からは、その分断を超えて、いくら称えようとしても無理であるほどに、人間の救いのために来てくださったのです。なんと大きな愛か、恵みか、私たちは称える言葉を知りません。

ですからせめて、イエスと同じく、自分もまたありふれた道を外れているのだ、という足元を見つめましょう。分断があること、しかし分断を破った方がいたこと、それをこの時期に、噛みしめてみたいのです。私に何ができるのだろう。どうすればよいのだろう。簡単には答えは出ません。それでも、噛みしめたいのです。あなたには、何ができるのでしょうか。あなたなりに、どうすればよいのでしょうか。



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