言葉にしてみること

2023年12月7日

中学三年生も受験が近づいてきた。三角柱の体積を求める問題。図としては見取図がそこにあり、ABとACが4cm、ACも4cm、そして∠BACが90°と書いてある。多くの生徒にとっては簡単な問題だ。空間図形の問題を解くためには、見るべき平面を、真正面から書き直して考えるのが基本である。福岡県の公立高校の入試問題は、それを必要としている。それで底面の直角二等辺三角形の図を書いて、「底面積×高さ」の公式に当てはめた式を書く。説明は単純である。
 
が、授業後、質問が来た。「その真正面から見た図が、描けないんです。」
 
これは、予想していなかった。分からない子は、やはりそこから分からないのだ。何故分からないのだろう。見取図と条件からすると、分かりきっているではないか。――そんなことを言う者は、教師にはなれない。
 
ともかく、それを配慮できていなかったのは、自分の落ち度である。即座に教えなければ。私も次の授業が控えている。急がねばならない。さて、どうしたものだろう。先ほど喋ったことを繰り返しても、埒があかない。何を強調しようか。私は考えて、「言葉にするんだ」とアドバイスした。「あの条件から、『これは直角二等辺三角形のことだ』と気づいたことを、言葉にしてみるんだ。図形から図形を描くのではなくて、図形を見て気づいたことを、一度言葉に翻訳してみる。そして、その翻訳をもとに、新たな図を描く。頭の中で、一度この翻訳作業を言葉でやってみるとどうだろう。」
 
幸い、これで生徒の目が輝いた。よかった。
 
人間は言葉で考えるのである。思考は言葉を使う。こうして私は、聖書の言葉というものに心が向かうのだった。聖書は、言葉で遺された。絵を描いた人も、その言葉からのイメージを絵にしただけだ。聖書は言葉を通じて、何かを私たちに伝えてくれる。
 
もちろん、言葉だけですべてが終わりなのではない。また、言葉でなければ意味がない、というわけではない。聖書へのアプローチには感性、つまりセンスが必要である。人は感覚があり、感情が伴う、それを用いるべきときがある。だがそれもまた、言葉を通じてもたらされることがある。「感情」には言語が伴う、として、行動を伴う「情動」と対照して説明する人がいた。
 
こうして考えてくると、言葉とは翻訳の作業で生じ、理解の橋渡しをするものであることが見えてくる。聖書の場合、それを筆記した人の体験が、一旦言葉になる。そうして書かれた聖書という言葉を通じて、その言葉の背後にある体験を、私たちは感覚する。それはつまり、聖書の読者たる私たちが、体験する、ということである。冷たい言葉ですべてが終わるのではない。なんらかの感覚や感性により、私たちが、できるだけ元来あったはずのあの筆記者たちの聖書体験を、体験するのである。
 
それは、完全に彼らの体験と同一である保証はない。だが、それでよいのではないか。翻訳された言葉というものを通して私たちに新たに与えられた体験は、私たちを通して生きた現実となる。私たちが新たに体験したものが、ひとつの証しとして現実化する。それもまた、聖書の言葉を通じて生まれた、生きた現実である。神の言葉である聖書の言葉が、いまここで新たに出来事となるのである。
 
聖書は、そうした背景を、ABが4cmである、などというように私たちに書かれた形でもたらされている。私たちはその言葉を読んで、自分なりに見やすい角度から図を描き直す。それが、自分が課題を解くために役立つ。出題者が与えた問いに向き合い、それを解くための準備となる。
 
数学の問題への初歩的な質問が、私にひとつの気づきを与えてくれた。



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