来る物語を行く

2023年12月4日

黙示録の連続講解説教(と呼んでよいか分からないが)を外れて、今日からの「アドベント」に沿った説教が用意された。例年解説するとのことだが、「アドベント」は「到来」の意味であり、「待降節」の「待つ」言葉は入っていない。むしろ「来る」である。旅を続けながら生きる私たちへ、向こうから新しいものが「来る」ことを、一つのイメージとして説教者は提示した。その景色が目の前に現れて、拡がってゆくとよいのである。
 
キリストは来た。そのキリストと出会った者たちがいた。二千年前のことである。キリストは殺され、そして復活されられた。また新たにその死と生に出会った者たちは、キリスト者と呼ばれるようになった。当初は当然少数者であった。
 
今「クリスチャン」と言うと「敬虔な」といった語と結びつくコロケーションが定番かもしれないが、そうした評判でいい気になることはよくない。むしろ私は、その名を忌まわしく思うときさえある。歴史の中で、キリスト教と称する人間たちが、どれほど酷いことをしてきたか、あるいはしているか、そんな仲間ですみません、というのが私の正直な心情だ。
 
ひとはどうしてキリスト者になったのか。それは「罪を知ったからだ」と説教者は挙げる。また、「悲しみを知ったからだ」とも言える、と言う。それ故にこそ選ばれたのである。逆に言えば、自分の罪を知らないということは、神に選ばれていない、とでも言ったほうがよいのかもしれない。自分は神を礼拝しているつもりであっても、神のほうからは、さてどうであろうか。
 
「罪を知る」者を、神は集めた。イエスの旅を福音書から見ても、それは実によく分かる。もちろん、他人を罪人呼ばわりするようなこととは無関係である。自らの罪を知る者である。戦争は、自分が正しい、と思うからこそ起こすものであろう。それは、敵だけがひたすら悪いのである。戦いの世を終わらせるという信念のためにも、家康が何としても勝つ戦いを始めたことを、今夜放送の「どうする家康」は描いていた。いやに美しいドラマをつくっていたが、私たちがそれを引き継ぐことはできない、と私は考えた。
 
アドベントである。クリスマスというと、どうしてもイベント化してしまったものがちらついてしまうが、キリストが生まれたということを深く思うこの機会は、当時の人々が救い主の現れを待っていたという背景を覚えるばかりでなく、いまここにある私たちもまた、救い主の再来を待つときでなければなるまい。
 
だが、それを待つということは、それが実際に起こること、ということを信じていなければならない。ということは、神はその約束を決して反故にすることはない、ということである。神の言葉は、無にはならない。滅びることはない。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)が、すでに今日の聖書箇所として開かれていた。今日はここだけを持ち帰ってもらってもよい、との知らせがあった。
 
説教者がたくさんの言葉を用意し、伝えることを長時間用いて組み立てても、ひとつのことが伝わればよい、というのは割に合わないことのように思えるかもしれない。だが、私たちは学生時代の教師の言葉を、どれほど覚えていることだろう。印象的な先生であっても、あの先生にこれこれを教わった、というひとつがあれば十分だ、と私たちは考えてはいないだろうか。それでもよいのである。私たちは主日の説教から、一つのことを心の核心に結わえつけて、1週間を生きていくことができれば、それでもよいのではないだろうか。
 
ともすれば、礼拝が終わった瞬間に、説教のことなどすべて忘れ去って、あとは楽しく仲間と喋る、というだけのイベントを毎週楽しんでいるような信徒がいるような気がしてならない。また、それを前提にして、教案誌を元にてきとうな作文を読み上げるだけの「説教」で儀式を成立させるだけの人も、いるような気がする。この循環は、ますますその傾向を強くするばかりであろう。そうしているうちに、聖書の言葉が実に空しいものに変えられてゆく。
 
さて、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」のであった。だとすれば、「天地は滅びる」のである。そう、私たちもまた、肉の存在としては、滅びるように見える。教会では、今日もまた(という言い方はよい響きを有たないが)、会堂に棺を連れてきていた。つい最近も、複数の方の棺を迎えた。どうか天の国の門をしばらく閉じていてくれませんか、と説教者が嘆きたくなるのも無理はない。だが、それでも神の言葉を説教者は語る。この言葉は、その方の魂には語りかけられている。滅びない言葉が、もはや「天地」の部類には属さなくなったその方の魂を、いま確かに生かしている。神の言葉が滅びないことは、もはや大前提であるのだ。
 
説教者は、敬愛するネルソン・マンデラの名を出して、そのキリスト者としての姿勢を紹介した。いわば無実の罪を背負い、四半世紀にわたり牢獄で生きることを強いられたのだ。だが、マンデラ氏は品位を失わなかった。そこは「闇」であった。だが、ただの闇では終わらなかった。「やがてくる新しいことに心を奪われて、すでに新しい生き方ができる」ことを、貫いたからであった。新しい命があったのだ。光があったのだ。
 
ある老牧師の講演を聞いた、若い神学生の逸話があった。老牧師は、教会の現状を批判する話をした。「批判」とはもちろん、「非難」ではない。適切に冷静に物事を検討することである。だが、若い神学生はそれを聞いた後で、老牧師にレスポンスをした。話を聞いて、自分はもう牧師になろうとはしないことにした、そして教会に仕えないでいたいと考えた、と。すると老牧師は、あなたは聞き間違えたのだ、と返答したという。「批判」は必要なのだ。ただ、神の言葉の約束のため、そしてそれを受けるべき世のために、神の言葉の成就を、すなわち神の到来を、待ち続ける人が必要なのだ。簡単に諦めるために、君はここにいるのではないはずだ。
 
そう。絶望しそうなほどに、世は「闇」で覆われている。だが、イエスは当時の「闇」の中に現れたのだった。罪の世がなくなるはずがない。教会であれ何であれ、罪から簡単に逃れるような綺麗事は並べられまい。
 
否、むしろ気づくべきである。最も深い漆黒の闇はどこにあるか。この私の中ではないのか。それを知ることこそが、救い主と出会う道ではなかったのか。だとすれば、イエスがどうして十字架に架かったのか、目が開かれるというものだろう。この私が、主を十字架につけたのだ。そこに、私と主イエスとの関係がようやく始まる。私からは、そう見える。しかし、聖書から聴くことから察するに、神の側からはそうではないらしい。私が神を見上げるずっと前から、神は私を知っていた。そして私が気づかないうちに、私を呼んでおり、私を他の多くのキリスト者たちと共に、そこに集めてくださった。そして私は命を与えられ、生きることができるように恵みを受けた。私が罪に死んだからである。
 
そんなことを思っていた私の耳に、説教者は美しい情景をもたらす言葉を投げかけてくれた。「私たちは、こうして旅路の足元の花を見出すのです。冬の中に、すでに春の訪れを見ることができるのです。」
 
イエス・キリストの誕生を祝う、いうのが通常のクリスマスであり、その約1か月前からが、アドベントである。そのときには、福音書のイエスの誕生にまつわる聖書箇所が開かれるのが常である。奇を衒ってそれを外すという方法もあるが、ここではそうではないはずだ。かつてユダヤの人々が救い主の誕生を待っていたとすれば、いまここにいる私たちは、やがて世界の結末を定めるために来られる主を待つ身である。そして、主は確かに、来る。私たちは、このような物語の最中を現に生きている。私たちは、勇気を以て、いまを生きていくのである。その足元には、見よ、花が咲いているのである。



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