アドベントに思う

2023年12月3日

いわゆる「アドベント」の期間に入る。「待降節」と訳される。クリスマス前の4週間が基本である。12月がほぼすっぽり入ることになる。そもそもクリスマスは、「キリスト礼拝」というような意味で、神がこの世に救い主を送ったこと、その救い主が人間として誕生したことについての礼拝である。もちろん、聖書にこの時期がそうだと書かれているわけではなく、いわば便宜的に決めたということになる。
 
信仰の上では、このように神の子が生まれた、というのは事実なのだから、それをどこかに設定して、生まれたことの記念とするのである。
 
尤も、母親にとっては、子が外に出たかどうかの問題であって、胎内に宿ったときから、子はそこにいる、ということになるから、ある意味でこれもやはり男性本位の捉え方に過ぎないかもしれない。
 
教会暦は、それなりに歴史と伝統をもつものである。クリスマスはその中途から始まった祭りであり、アドベントもまたそうである。しかし、しばし静まるということが、悪かろうはずがない。まずは受け容れて、黙想するというひとときを得たいものだと思う。
 
雪すら降るこの寒さ、だがそれは北半球の一部に過ぎない。南半球の人に「ホワイト・クリスマス」などと話すのは滑稽でもあり、失礼である。日本のように四季が移り変わる風土で初めて、ああ雪だ、などという感想を漏らすことができることにも、思いを馳せる。
 
自分が置かれている環境や景色が、すべてではない、ということだ。特に宗教というのは一つの信念であるし、それこそが正しい、というある種の自信や確信がなければ、意味をもたないものであろう。だが、万事においてそうだ、ということになると、不都合が起こる。特に、信じている自分自身が正しい、という思いなしを、人間はやりがちである。それでいて、その思いなしに気がつかないのが、これまた人間というものである。
 
私は、礼拝を大切に思う。そのときに、命の言葉を受ける恵みを大切にしてきた。だが、そんなものは全く必要ない、とする考え方の人もいる。礼拝説教など、形式だけあればよく、誰も何も聞いていなくても、仲良しが集まるひとときがあれば楽しい、と満足する人がいても、私はそれを間違っていると言うことはできない。ただ、歴代のキリスト者の先人たちは、そういうことを否んで、歴史を紡いできたのだ、とは思う。私もその信仰の姿勢には賛同する。同じ聖書から救いを受けた者は、そうしたつながりが分かるものだと思っている。
 
聖書を偶像にするのではない。聖書から、人は命を受けてきた。生きるということを教えられてきた。幸せを感謝して受け取ってきた。「アドベント」とは「待つ」ことであった。生きている私たちは、希望の中で「待つ」ことが許されている。自分の中には何の希望もないが、神は希望を与えてくださっている。心静めて、「待つ」ことの喜びを噛みしめる時を、ありがたく受け止めていたいと願っている。



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