志願理由書

2023年11月25日

推薦入試という形は、試験一発だけの能力以外の方法を模索してのものであろう。採用に曖昧さは残る。よく、点数主義はどうのこうのと非難されるが、公平さにおいてはなかなかよくできたやり方である。むしろ点数によらない基準のほうが、何を以て合格するのか、不透明な面が確かにあるのである。
 
しかしその存在意義は理解できる。学科の問題が解けたかどうか、でないとなると、スポーツ推薦や、学科とは別の能力の推薦というものもある。模索した上での方法だから、まだこれからも変更されてゆくことだろう。
 
推薦入試では多くが、志願理由書を必要とする。中高一貫校でもそれはある。生徒たちの大事な運命に関わるその志願理由書を書く指導に携わっている。責任重大である。
 
小学生の場合、漢字が書けないという問題もあるが、主語と述語の呼応がままならぬということも少なくない。話し言葉を書くということは、なかなか直らない。概して、文章を書くことに慣れていない様子が分かるが、それも恐らく、文章を読むことに慣れていない、という原因があるような気がする。
 
小学生が本を読まない、とは思わない。よく読む子は多い。だが、話し言葉が飛び交うジュニア小説や物語に馴染んでいると、書きことばとは違うものが身についてしまう。「なので」から文を始めてはならない、とさんざん注意されていても毎回書く子もいて、溜息が出る。そこまでいかなくても、いざ作文となると多くの子は構えてぎこちないし、よほどふだんから書くことに親しみをもっている子でないと、スムーズに志願理由書というものも書けない。
 
中学生となると、さすがに教科書で堅い文章に触れるため、文章そのものは整ってくる。多少話言葉は混じるものの、やはりその点成長がある。文章として、形にはなってきていると思う。何かを主張するための段取りというのも、しっかりしてくる。ちょっと読むと、筋は確かに通っていると言えるようになる。
 
だが、志願理由書となると、自己アピールが必要になる。だが、それがあまりうまくない。普通の子にはない英語の経験があると言っておきながら、高校でそれを活かすというようなふうには言わないでしまう。ほかの人にはない自分の特質は、もっと表に出せばよいと思う。しかも、その英語を活かす道を頭に置いているようなのだから、そこは強調すべきである。
 
自分は生徒会をし部長をし修学旅行委員をした、というのはメリットかもしれないが、それくらいの生徒は、他の中学校から推薦入試にいくらでも集まってくる。いくら高校を褒めても、自分がその高校で何をしたいのか、その「熱意」というものがどこにも出てこない生徒は、もしかすると、自分は推薦に値するという、プライドだけで受けるのだろうか。
 
「熱意」は何ものにも替えがたい、志願理由書のポイントである。熱意があれば、それは文の中に現れる。事態を見つける眼差しの中に、ちょっとした言葉遣いの中に、熱意は感じられるものだ。ほかの高校ではいけない、その高校でなければ、という強い思いは、ちゃんと伝わってくる。高校と自分との関係を見つめるところから、推薦入試というものは始まるものであろう。
 
パウロは、第二コリント書で、自己推薦ではなく、神から推薦される者でありたい旨を吐露している。確かに、自分で推薦するというのは難しいものだろう。この推薦入試にしても、要するに中学校がその生徒を推薦するのであって、自分で自分を、というものではない。しかし、中学校に対しても、自分で自分を推薦する作業がやはり入っていくことになるだろう。そのアピールしたい自分とは、いったい何者であるのか、それを知らねばならない。
 
だが、そんな「自分」など、分からないものである。小学生には何度も何度も書かせる。書いて、私に注意されていくうちに、次第に自分の深い気持ちに気づいてゆくようになる。書いて、書き直してゆくうちに、自分というものに気づいてゆくのである。
 
中学生は、指導上、そう何度も書き直させる時間がない。ある程度きつく対処して目を覚まさせ、後は自分で気づいてゆくようにするしかない。自分の熱意は何か。その高校への熱意があるのか。あるなら、それはどう表現されてゆくのか。
 
やはり、この考察は、自分自身に戻ってくる。おまえの信仰に、熱意があるのか。どうしてもこの神でなければならないという思いがあるのか。神と自分との関係は、いったい何なのか。私の中での「理由」とは何であろうか。こうした問いは、キリスト者の誰もが有しており、誰もが相応の応えをもっているはずである。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります