神の国は近い

2023年11月20日

この説教者は、新約聖書はしばしばルカ伝から語っていた。もちろん意図的である。このルカ伝はどういうふうに綴られていたのか、少しだけ振り返るひとときがあった。ルカ伝では、イエスの眼差しはじっとエルサレムに注がれる。いよいよそのエルサレムに辿り着いてからは、ルカが非常に力をこめて書いたことだろう。
 
エルサレムでイエスは、人々の目を、一度将来へ向けさせる。いわゆる「再臨」である。世の終わり、裁きの時、主の日、終末、いろいろな言い方があるだろう。裁きは、犯罪人にとっては恐ろしいものである。しかし無罪を確信している人にとっては、待ち望むべきものであろう。特に、全能の神が自分の弁護者であるとなれば、もう結果が言い渡されているのと同じである。
 
私たちは、自分で自分の判決を下すことはできない。だが、ここに弁護者がいる。私の罪は、その方がもう無罪判決と取り替えてくださっている。その方自らが、私の罪の故に私が受けねばならなかった罰を、命を懸けて受けたために、もう訴状も無効になってしまっているのである。
 
ルカ21:29の「ほかのすべての木」は、ルカが書き加えたものであるという。ルカの心は、この後福音が異邦人へ伝えられていくところへ急いでいる。「いちじく」とだけ書いていたのでは、ユダヤ人にとってのその意味が効果的に伝わらない、と見たのであろう。説教者が軽快に教えてくれたことだったが、説得力があった。
 
神の国が近づいている。エルサレムに到着したイエスは、その場にいた弟子たちにはもちろんのことだが、ルカ伝の読者すべてに対して、神の国は近い、と告げている。ルカ伝自体、イエスの十字架と復活、そして教会の始まりからして、半世紀ほどの時を経て記されている。半世紀前に近かった神の国が、もはや遠くなってはいけないのである。
 
神の国は近い。そのときに「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(21:33)という。それは、私たちが、天地のほうにいるか、イエスの言葉の中にいるか、どちらかを考えさせてくれる。「わたしにつながっていなさい」とイエスは命じたが、それ以上に「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」との祈りの言葉を刻印した。言葉が実現するところが、ただの人間とは違うところである。
 
ルカはこれに続いて直ちに、「心が鈍くならないように注意しなさい」という警告を置いた。私たちは、神の国は遠い、と自分で自分に弁解してしまう。まあしばらくはそうではないだろう、だから今のうちに……と、一時的なことにかまけてしまいがちである。だが、罠は不意に襲う。恐ろしい力を、私たちはコントロールできない。それを知り尽くしているわけではない。
 
その罠に陥る危険性を逃れるためには、「いつも目を覚まして祈りなさい」というイエスのアドバイスに従うことだ。ここには、誰もが注目する。しかし、このフレーズの直前にある言葉とつなぐと、新たな視界が開けてくる。
 
21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。
 
「人の子」とは、もちろんイエスのことだとしてよい。目を覚まして祈るという、極めて抽象的な使命は、一つの目的を与えられていた。「イエスの前に立つ」自分の姿をイメージすることが必要なのである。私は、神の言葉を耳にした。耳から心を裂くように流れ込んできて、私の核心を破壊した。罪の故に私は一度死んだ。そして、そこから息を吹き込まれ、立ち上がらされた私は、神の言葉の招きを受けて、歩き始めた。
 
それが、「神の国が近い」ということなのだ。いつでも「いま、ここ」において、神の国の入口が待ち受けている。このように、罪を知り魂の死を経験し、その死をイエスが引き受けてくださったことにより、神により立ち上がることができたとき、そこに神の国が、つねにすでにあったということなのだ。
 
私はこうして、目覚めさせられる。自分の力で目を覚ましていよう、と全身に力を入れる必要はない。仏陀の言うような「目覚めた者」である必要はないが、神が私を目覚めさせてくださることになる。私が目覚めるという能動性よりも、むしろ私は神によって目覚めさせられるのだ。どこまでも、業は恵みの中にもたらされる。神の業としての、目覚めさせる出来事が、私という場において、いまここで起こる。
 
説教者の語りと並行して、私はこのような体験をしていた。ふと気づくと、目を覚ましていること、歩むこと、そのような信仰生活に必要な要素として、説教者は、三つの点を強調していた。「御言葉・祈り・出会い」がそれである。ここに、説教者の真骨頂があった。そのエッセンスは、ほんとうは説教者自身しか分からないことではないかと思う。ただ、そこに「出会い」というものが最後に決定的に控えていることを、私はうれしく思った。
 
説教者はその意味や意図を、明らかにはしなかった。深い信仰による思いをそこにこめているであろうことは、理解できるような気がするが、それが何であるかについては、私が言い当てるようなことはできないと思っている。だからこれは、説教を受けた一人ひとりが、自分に問いかけ、自分ならば、と応えることが求められているように感じた。
 
私は、そこに二重の意味を見つめていた。ここにいる私からの信仰において捉えるならば、神と出会うことと、人と出会うことである。人というのは、隣人と言い換えてもいい。こうした考え方は、ひとつの基準となりうるものであろう。しかしまた、それは私からの景色でしかない。神の側からすればどうだろう。イエスの眼差しはどうだろう。
 
説教者が、ルカ伝と共に開いておいた旧約聖書は、エレミヤ書33章であった。そこには、荒れ果てたユダとエルサレムで、「再び羊飼いが牧場を持ち、羊の群れを憩わせるようになる」という主の言葉があった。主体は羊飼いであり、羊の群れが目的語である。人間は、私は、もちろん羊の群れである。私と出会う羊飼いなる主イエスが、私を見出してくださる。私と出会ってくださる。ここに気づくと、「恵み」というものが、どれほどに大きなものであるのか、震えるような思いに満たされるのだ。
 
そのときエルサレムは、「『主は我らの救い』と呼ばれる」であろう、とエレミヤ書は告げる。説教者が、「主にあっていつも救いの中に生き続けることができる」と言った言葉が、今日も明日も、私を支えることだろう。すでに神の国がここにあるということに気づかされた喜びに、支えられることだろう。それほどに、神の国は近いのである。



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