【メッセージ】死の洗礼

2023年11月19日

(コロサイ2:11-15, 詩編51:3-14)

あなたがたは、洗礼によってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。(コロサイ2:12)
 
◆水
 
今日は「洗礼」ということについて、考えてみたいと思います。洗礼は、水に全身を浸すこと、または水を額にかける儀式です。元々は全身だっただろうと思われます。「洗礼」という文字からすると、洗うこと、洗い清めることという意味で理解しておきます。
 
新約聖書では、洗礼者ヨハネという人物が登場します。四つの福音書すべてに描かれています。冷静に読むと、イエスという人物を紹介するために、洗礼者ヨハネが、恰も周知の有名人であるかのように描かれているように感じます。あのヨハネが保証したのだから、イエスはただ者ではないのだ、というように聞こえるのです。むしろヨハネの権威に支えられて、イエスが紹介されているように見えるのは、私だけなのでしょうか。
 
洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。そこで、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。(マルコ1:4-5)
 
インドのガンジス川では、ヒンズー教に則って、沐浴がよく行われているそうです。これも、洗い清めるということでしょうか。日本でも、滝に打たれるなど、類似の考えがあろうかと思います。特に日本では、「水に流せ」というように、水が汚れを流して清めてしまうという感覚がありますから、キリスト教での「洗礼」も、特別に理解が難しいというわけではないだろうという気がします。
 
水ではなく、泥で洗うというのは、考えにくいものです。まして、糞尿だと、とても洗うというものではないでしょう。私は、お恥ずかしいことながら、肥溜めに落ちたことがあります。「肥溜め」という言葉は、もはや多くの人には通じないだろうと思います。昔は、便所の糞尿を、農家の方が持って行くことがありました。田畑の肥やしとして使うのです。田んぼの一画に、それを溜めておくところがありました。それが「肥溜め」です。
 
表面に浮いた雑物のために、そこがまるでコンクリートか何かのように見えることがありました。まだ幼かった私には、少なくともそう見えたのです。いまでは柵も何もなしにそういうところがあるなどとは考えられないことですが、当時はそうしたものはありませんでした。私はそこを普通に地面だと思って踏みました。その瞬間、体が無重力空間に放り出されたようになりました。
 
そばに姉が一緒にいなかったら、もはや生きてはいなかったことでしょう。引き出され、体中から臭いを振りまきながら、家まで歩いて帰ったことを、かろうじて覚えています。これでは、全身を浸しても、とても清くなれるものではありません。
 
肥溜めでなくても、水は怖いものです。洪水や鉄砲水はもちろん怖いものですが、浅い溝でも子どもが雨の日に溺れ死ぬという事故が起こり得ます。洗面器一杯の水で溺死させるという殺人事件も、あり得るわけです。
 
◆聖書での水
 
今度はきれいな水の話をしましょう。日本では「水に流す」という考えから、洗礼もそれなりに分かる、というふうにお話ししました。旧約聖書は、基本的に水の豊富な地域の話ではありません。特に荒野となれば、谷があっても水が涸れているなどして、水に渇くという環境であったかと思われます。
 
出エジプト記は、イスラエル民族の祖先たちが、エジプトで厳しい奴隷の身にあったところ、今のイスラエルの地へ向けて旅立つという物語を描いています。途中、その荒野と呼ばれる地を40年にわたって歩き巡るというわけで、水がない、水をくれ、と何十万人という人々が、指導者モーセに不平を言うシーンが何度か現れます。それはそうでしょう。どうやって水を供給していたのか、本当に不思議に思います。人々は不安を覚え、不平をぶつけるでしょう。モーセは神に尋ね、岩を叩いて水を出す、というようなことをします。水不足は深刻だったことでしょう。
 
サマリアの女の場面にも、水が主役のようになりました。人目を避ける立場にあったその女は、井戸の水汲みのために、人がわざわざ出歩かない、真昼に井戸にやってきました。イエスは、井戸の水は飲んでもまた渇くが、イエス自身が永遠の命にいたる水を出すことができる、と言いました。女は、この熱い昼の日中に水を汲みに来る必要がないように、その水をください、と願い出ます。
 
同じヨハネの福音書には、渇いている者はわたしのもとに来て信じれば、その人の内から生ける水が流れ出る、とイエスが言った場面もありました。また、イエスの十字架の場面では、絶命したと思しきイエスの脇腹を、兵士が槍で刺したところ、血と共に、水が流れ出たことが証言されています。そのため、ヨハネの手紙では、イエスが水と血とによって来られたのだ、と書かれています。
 
イエスの弟子のフィリポが、ガザへ下る道へ行けと天使に命じられたとき、そこでエチオピアの女王の高官に出会う場面があります。この高官は聖書に関心があり、心の内では信仰を持っていたと思われます。イザヤ書の意味が分からないため、現れたフィリポに尋ねると、それがメシアであることが理解できました。そこで、水のある所に来ると、彼は洗礼を直ちに受けたいと願ったのでした。
 
旧約聖書の時代ですが、ダビデ王が、ペリシテ人の軍とにらみ合っていたとき、ベツレヘムの城門の井戸の水を飲みたい、と呟いたことがありました。それを聞いて三人の勇士が、ペリシテの人を突破して、井戸から水を汲んで持ち帰る、そういうエピソードもありました。しかしダビデはその水を飲もうとせず、地に注いで主に献げます。何のために彼らは命を懸けて水を汲みに行ったのか分からないと私は思いましたが、ダビデはその水を、血そのものだ、として神に献げたというのでした。
 
捕囚前の王ヒゼキヤは、水道事業に名を残しています。貯水池と水道を造営して、エルサレムに水が豊かに流れるようにしました。これは現実の人の生活に、大いに役立つこととなりました。
 
ヨラム王の時代でしょうか、アラム軍の司令官ナアマンが、皮膚病を煩い、噂を聞きつけてイスラエルの預言者エリシャを訪ねる場面があります。ナアマンは、呪い医師らしく振舞って癒やすのかと思いこんでいましたが、エリシャは、ヨルダン川で身を洗えと使いに言わせただけ。ナアマンは怒るも、川で身を洗うと、皮膚病はすっかり治りました。
 
◆洗礼
 
さて、現代日本で「洗礼」という言葉を世の中で耳にするのは、どんなときでしょう。「洗礼を浴びる」という使い方がなされているような気がします。鳴り物入りで球界入りした期待の投手が、初登板のマウンドで散々に打たれたとき、「プロの洗礼を浴びた」、これなら聞いたことがあるのではないでしょうか。
 
そうした使い方は、だいぶお門違いだとは思います。「浴びる」という言葉とつながるようにも考えられません。それでは「洗礼」とは何でしょうか。事務的に言えば、教会員となるための儀式です。大きく言っても、キリスト教徒になるための儀式というところでしょうか。
 
洗礼は厳しい仕打ちに遭うということかしら、というような世間の受け止め方は、安易には賛同できませんが、私の場合、洗礼を受けることは、やはり嬉しかったことは確かです。
 
教派や教団によっても、洗礼については考え方にずいぶん差異があります。特に幼児洗礼という問題は、教会を二分するほどの論議を呼びました。聖書が直接命じていたり説明したりしていないのですから、人の解釈ということで、意見の対立があったというわけです。私がもし、子ども時分に信仰を与えられていたら、また違う洗礼の仕方と、洗礼への考え方をもつことになっていたことでしょう。あいにく、成人後でした。
 
いい気なものです。他人を傷つけていたという自分の姿をようやく知ったのが、成人後だったということです。鈍いと言えば鈍いものです。その自覚があったとき、戦慄に襲われました。取り返しのつかないことをしでかしていた――聖書の中からそれに気づかされて、涙しました。神の前に引きずり出されました。
 
死にたいとも思いました。自分は生きている価値がない、と落ちこみました。地球上で、無駄に資源を食い尽くし、自分本位で他人をも食い物にしている存在。死ぬ度胸もないくせに、どうにかしてこれまでの自分を葬り去るよりほかにはない、とだけは感じていました。もし救われるならば、どうすればいいのか。聖書をどう読めばよいのかも分からない。ならば教会に行けばよいのか。でも、教会というところに行くには、しばし躊躇いがありました。もし一度そこに行ってしまうと、そして入り込んでしまうと、もう引き返せない、と直感的に思ったのです。
 
◆私の洗礼
 
下宿近くに教会があることが分かりました。あるとき、ついにそこを訪ねました。とにかく教会というところはどういうところなのか知識がありませんから、言われるままでした。清らかな話や子どもたちの劇の姿に、心が洗われるようでした。但し、それまで自分なりに触れた聖書、聞き知る聖書の意味、またキリスト教ラジオ放送から教えられたこととは、ずいぶんと違う教えを、その教会は主張していました。
 
何か違う。けれども、私自身はとんでもない悪人です。悪人だという自覚が与えられたばかりです。もはや自分本位で何かを決めるということでなく、神がイニシアチブを取るようなあり方をすべきだ、という立場を取りました。自分からその教会を出て行く、ということはするまい、と決めていました。ただ、1年近くそこにいましたから、洗礼はどうか、という話がないわけではありませんでしたけれども、それは望みませんでした。
 
助け手が現れていました。何かおかしい、という感じ方は、自分だけではないことを知りました。いろいろある中で、詩編の言葉が与えられて、その助け手と共に、ついにその団体を出て行くことになりました。不思議な巡り合わせで、新たな頼るべき教会が見つかったのです。そこでは、聖書と違和感のない信仰に安堵し、洗礼を受けました。心置きなく、洗礼の時を迎えました。私の場合は、川に行ったのではなく、滴礼でした。もしも川だったら、賀茂川に入っていたことでしょう。
 
ところで、洗礼を誰から授けられたか、ということを問題にする場合があります。極端に言うと、その後犯罪者として逮捕されるような牧師から、かつて受けた洗礼は無効なのかどうか、というような悩みです。悲しいことですが、近年、そうした事例がいくつも出てきました。また、犯罪とまではいかなくても、凡そ説教の名に値しないような話しかする能力のない人が、神学校だけを出て、牧師不足をいいことに簡単に主任牧師になどすぐになるようなケースもあります。こうした人から受ける洗礼は、とても神の名に値するものではないだろう、という考えがあっても不思議ではありません。
 
キリスト教世界での凡その統一見解は、そのような洗礼でも、無効ではない、とされています。実際、それで無効とするのであれば、実に面倒なことが起こるのも確かですが、洗礼そのものは牧師が施すのではなくて、神が主体であるのだから、神の業だということを否定する理由はない、という理由で、一定の形に則ってなされた洗礼の業は、すべて神に基づく有効なものだ、と見られているようです。
 
私に洗礼を授けた牧師については、信仰や人格について問題は何もないのですが、私が京都を去った後に、教会員の中から、一種の誤解から厳しく追い詰められる事態となり、自分が建てた教会を出ることになってしまいました。その他、私の家族の受けた洗礼については、授けた牧師や団体に、もっと深刻な事情がある場合がありました。それでも、洗礼は洗礼です。恵みです。それは確かなことです。
 
◆柵(しがらみ)
 
普通、洗礼には、決意が要ると思われます。覚悟とでも言えばよいでしょうか。最近『証し』というユニークな本が発行され、100人以上様々な人のキリスト教との出会いや経緯などが集められていました。機会があれば目を通されるとよいと思います。洗礼についても、家族の反対や圧力の中で、強い葛藤を覚えてようやく洗礼を受けた、という人もいます。少しばかり以前の話なので、時代的な意味合いもあるかもしれませんが、いまでも家族の反対というのは、稀なことではないのではないでしょうか。
 
殊に、ここのところ「宗教2世」というキーワードが、よく意味の分からない人も多い中で広まっており、宗教は気味が悪い、という印象が余計に強いかもしれません。組織的な詐欺グループとして活動する宗教団体が、さらに悪いイメージを与えているとも言えますが、献金について後からトラブルになるのは、昔、ある福音的な教会でも実際にあったということです。だから、洗礼を受ける、と家族が口にしたら、止めにかかる、というのも故無きことではありません。
 
私の場合、家族に相談もしませんでした。しかし、家族にそれなりの証しはしました。母は面白くなかったかもしれません。父はというと、反対することはありませんでしたが、「墓守」について一番心配していました。キリスト教の中には、仏壇を捨てるなどということを推奨する場合もありますし、寺にある墓とは縁を切る、という話も聞きます。親としては、そうした点が気がかりだったと思われます。
 
確かに、特にプロテスタントではそうした問題については、教会毎に違うとも言えます。心配もご尤もでした。しかし、墓については何もこだわりはありません。というより、それが信仰の問題だというようには考えていないわけです。その姿勢は理解されたばかりか、墓を寺所有から分離する、というところまで、親は動きました。他宗派の者が墓を所有してはならない、という法規を寺が確認してきたことがきっかけのようでした。これは、私にとり、心からうれしく思えることでした。あまり口に出してはいませんけれども。
 
このような問題は、教派により、あるいは教会により、様々です。たとえば「聖書」の「聖」というのは、離れることであり、分離することを意味します。しかし、新約聖書でも、誰とも付き合わないでは生きていけないし、異教徒の中ででもきちんとした社会生活をし、立派な生活をするように、と勧めています。
 
世間となんでもなあなあでいけばよい、という信仰生活を勧める教会も、普通ないでしょうから、特に現代社会では、バランスが求められることでしょう。いつの間にかずるずると、牙を抜かれるようなことになっていないか、それはよく点検すべきではないかと私は思っていますが。
 
◆洗礼の目的
 
洗礼は、何のために受けるのか。先に挙げたように、清めるという動機が基にあるように思われます。しかしイエス自身がその洗礼を受けている、ということは、やはり気になります。洗礼者ヨハネのところに現れたイエスが、自分に洗礼を授けるように、と言うのです。
 
その時、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「私こそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。(マタイ3:13-16)
 
このイエスは、誰かに洗礼を授けた様子はありませんが、弟子たちは洗礼を授けているようです。パウロも授けているし、パウロは洗礼を受けています(使徒9:18)。このような「洗礼」は、いったいどのようなものであったのでしょうか。洗礼のハウツーが記録されていない、という意味ではよく分かりません。仲間になることの儀式の意味があったのでしょうか。その後の教会でだったら、やはりそのような意味があったものと推測されるのですが、私はよく知りません。
 
その他、この「洗礼」が心を清くする、ということについては、水により清めるという文化をもつ日本人にとっては、理解が行き届くのではないかと思います。ところが、コロサイ書においては、洗礼に、清めのほかにも大切な視点があることが提供されています。
 
12:あなたがたは、洗礼によってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
 
今日皆さまには、ここだけを知って戴けたら十分です。これに尽きるということで、もう少しだけ、神の言葉を私が受けたままに、お伝えしようと思います。
 
◆洗礼は死
 
洗礼により、キリストと共に葬られている。洗礼で、私たちは死ぬのです。「洗礼」という言葉は、「水に沈むこと」を意味するものでしたが、もっと明確に言うと、「水に沈んで死ぬ」ことを指しています。つまり、端的に言って「溺死」のことを言います。
 
水で洗うこととは違います。水に流して消え去るようなものでもありません。済んだことは水に流したとしても、私自身は何も変わりません。洗っても、見た目だけきれいになるのであって、中身は汚れきったままです。自分が変えられているということはありません。しかし、洗礼は変わります。洗礼は、溺死することだからです。完全に死んでしまうのです。だから、自分は変わります。
 
イエスの十字架の死は、その私たちの死を確かに必要なものとして見せつけます。これでもか、と神の救いの現実を見せつけます。こうすれば、死ぬのだ、と教えます。けれども、私たちはイエスに倣って実際に十字架に架けられることはありません。十字架を背負うということはあるかもしれませんが、イエスと同じような死に方をするというわけではないと思います。
 
だから、私たちは溺死するのです。洗礼によって、一度死ぬのです。信仰の霊の内で、キリストの十字架と共に死ぬのです。そうやって、「数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださった」(14)のです。
 
もちろん、その死がすべての終わりだというわけではありません。死は終わりではないのです。そこが、聖書の強みです。いくら自己犠牲を払っても、一時的なひとつの美談で終わります。人々からは共感を受け、褒め称えられるかもしれませんが、ほんの一瞬だけのものです。けれども、キリストは復活しました。私たちが死んだならば、イエスの復活に与るように、して、私たちもまた復活の福音を聞き、復活へと運ばれて行くのです。これが、キリスト教の真髄です。
 
新約聖書では、この復活を、「復活されられた」という言い方で示します。受動態です。その意味上の主語が欠けている場合、聖書ではしばしばその主語として「神」を想定しています。「復活されられた」には、「神が復活させる」という意味が含まれていると理解されます。それと同時に、この表現は「すでに起こったこと」を表しています。キリストの復活は、確かな事実だ、と聖書は幾度も幾度も証言しています。
 
但し、この復活については、今日は十分に語るところへ進めませんでした。もう少しお待ちください。イエスも三日目の朝まで、陰府にいたというわけなので、今日は一度「死」としての洗礼に留まっておくことにしましょう。やや消極的に見えるかもしれませんが、私はそこを曖昧にせず、一度立ち止まっておくことには、意味があると考えています。
 
こんな自分を辞めたい、と思ったことがおありでしょう。自分の過去を、黒歴史をすべてなくしたいと思ったことが、きっとあるでしょう。自己嫌悪に陥ったことが、ないはずはないと思います。
 
ヒソプで私の罪を取り払ってください/私は清くなるでしょう。/私を洗ってください/私は雪よりも白くなるでしょう。(詩編51:9)
 
ダビデの詩です。神に願うダビデの姿は、痛々しいものです。取り返しのつかない過ちを、欲望と自己保全のために犯したのです。それを自分では認めようとしないままに、ついに預言者ナタンにより、罪人はあなただ、と突きつけられた後に、もう誰にも顔を合わせられないような姿で、ダビデは悔悟するのです。そのダビデが、神に、罪を清めてくれ、洗ってくれ、と祈っている詩です。
 
私たちは、このダビデよりも恵まれています。ダビデが祈って願えなかった、イエス・キリストを知っているからです。イエス・キリストが、私たちの罪が赦されるための支払いを、その血を以て済ませてくださったからです。ダビデがまだ知り得なかった、キリストの救いの道が私たちには備えられています。キリストがいます。殺されて、葬られたキリストがいます。私たちは、たったわずかな「洗礼」という儀式によって、このキリストと同様の死を経験したことになるというのです。
 
12:あなたがたは、洗礼によってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
 
後半の復活については、次の宿題とさせて下さい。それを残した形で、今日私たちは、キリストと共に葬られた、そこに立つことが許されました。今日お開きしたコロサイ書を、どうかこの後、そっとお読みくださいますように。ぜひ、声を出して、お読みください。神の語りかけが、そこから聞こえますように、と願っています。



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