孤独ではない

2023年11月15日

前回の100分de名著「古今和歌集」での、当該の和歌について、もう少し考えてみようかと思う。
 
月見ればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど (大江千里)
 
秋は私にだけやってくるわけではないけれど、自分だけに秋が来たような気がする。「物こそかなしけれ」の強調は、そこをこそ詠嘆の要とすべきところであるはずだ。それは正道である。
 
だが、司会者がこれを、自分だけではない、という方に慰めを見出した、ということに前回私は触れた。歌人はそうは思わなかったことだろう。秋が自分だけではない、というベースがあってこその、月にいま自分はこんなに胸が締め付けられるような思いを受けた、というように詠んだはずである。しかし、それでも、自分だけのものには終わらない、ということは、この歌を聞き、あるいは見た、私たちの内で証明されている。この月への感傷は、私たちへも拡がっていることは確実なのである。こうして、詠まれた歌は、すでに「わが身ひとつの」ものではなくなっているのである。「ああ孤独だなぁ」という言葉が作品となったとき、それを鑑賞する人とつながり、共有されることによって、すでに孤独ではなくなってしまう、という逆説めいたことが起こる、ということだ。
 
文学テキストというものが、読者に触れられることで、別の光を放つことができる。筆者当人が感じたものではないものすら、その言葉が伝えてゆく。
 
聖書の言葉が生きているというのは、そういうことなのだろうと思う。旧約の預言を、新約の記者は自分勝手に解釈した、などと意地悪く指摘する人がいる。それはそうだ、とも思う。だが、そうやって新約の光のもとで解釈することにより、旧訳の預言者が自身では考えてもいなかった意味が、また命が、そこから放たれてゆく、ということがあってもよいではないだろうか。
 
和歌の場合も、その和歌の世界に、読者が加わったからこそ、共感が起こる。和歌を、他人事として突き放していたら、感じることのない感情である。聖書の物語も、突き放して評価することしかできないでいると、そこから命が流れてくることがない。もちろん、信じる者でない場合には、それが当然のスタイルになるだろう。しかし、信者としての生活を営んでいてもなお、聖書の物語を俯瞰している、というような人が案外多いような気がしてならない。
 
自分は安全なところにいて、物語を外から眺めている。体よく、そこから教訓を与えられたような気がして、尤もらしいことを勧める。だが、自分でそれを信じている「演技」をしているだけ、というようなあり方をしていることの自覚がない場合は、修正しようもない。
 
読んでいて、苦しくなってくる記事が、聖書には多々ある。苦しかったり、恥ずかしかったり、その都度いろいろな体験を重ねてゆく。聖書は、かなり危険な書物である。読む者の胸を切り裂くこともあるし、打ちのめすこともある。聖書の背後にいる書き手として神がいるとすると、その神から投げかけられる言葉に、私は傷つきもするし、慰められもする。しかしそのとき、神からの呼びかけを全身で感じるのも確かである。
 
安全なところに身を置いて、テレビの中での戦禍の報道に、心を痛めるというのは、私自身としては、欺瞞である。戦いを仕掛ける者たちを非難する正義というのも、私としては、偽善である。私が攻撃している。私が戦争を仕掛け、子どもたちをも殺している。自分は手を汚していませんよ、などと嘯く気持ちにはとてもなれない。
 
台所で食器を洗いながら、この水をあそこに届けられたら、などといつも悲しく思う。しかし、それでまた善人面することへも、甚だ抵抗がある。どこまでも、当事者にはなれないのであって、当事者に寄り添うなどというような厚かましいことだけは、決してできない。それでも、聖書と向き合うことによって、自分だけが孤立しているのではない、ということはありがたく感じさせてもらえる。イエス・キリストには、そういう慰めがある。
 
わが身ひとつの秋にはあらねど
 
孤独ではない、という希望を見つけ出した、番組の司会者に感謝したい。その上で、決して自己満足はしないという誓いと共に、まだ祈ることを諦めないでいる。



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