平和の計画

2023年11月13日

11月15日の日本の七五三に合わせて、と言ってよいだろうと思う。日本の多くの教会で、その直前の主日礼拝に、子どもを祝福する機会を設けている。子どもにとっても、自分の居場所、主役となる時があるというのは、うれしいものかもしれない。
 
その教会では、幼児祝福式という形をとる。確かに七五三という区切りは、その辺りに落ち着くだろう。小学生までを祝福の対象にする教会もあるが、どのみち聖書に根拠を置くとはいえない式なので、時期も対象も、教会によりけりということなのだろう。
 
「式」の根拠は薄いが、子どもたちを祝福する根拠は、聖書にはある。「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」というようなイエスの姿が、聖書を知る人の頭にはすぐに浮かんでくるものである。それももちろん大切だが、礼拝説教の聖書箇所としてそれを選ぶと、毎年同じところを開くことになりかねない。去年は、マルコ4:30からの、からし種のたとえが開かれた。今年は、エレミヤ書29章であった。
 
エレミヤは、バビロン捕囚というユダヤ民族の最大の試練に巻き込まれた当事者たる預言者であった。しかし、近い将来、民族はこのユダヤの地に復帰することも神から示されていた。その時を待つためにも、捕囚の身とされた人々には、心がけるべきことがある。そこで落ち着いた生活をするのだ。過激な活動を企んではならない。そして当地の平安をも求めるべきだ、とするのである。
 
29:7 わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。
 
イエスもまた、福音を伝える旅の中で、世話になる家の平安を祈るように、弟子たちに教えたことがある。自分の幸福ばかりを祈る宗教は多いが、それを二の次にするという祈りのもつ意味を、私たちはもう少し考えてゆきたいものである。
 
さて、説教者は、珍しく弁解から入った。今日は最も、説教準備ができなかった礼拝を迎えた、と言うのだ。そこで、今日は「説教」という形で語らず、聖書を朗読するひとときをもつべきではないか、というところまで悩んだそうである。聖書朗読なり輪読なり、それでは礼拝になるのか、と思う人がいるかもしれないが、私はそれはありうるものと考えている。どちらも「神の言葉」であるからだ。「神の言葉」を聞くところに礼拝の意義があるのだとすれば、朗読も結構なことであろう。
 
しかし、概して説教者を通して、いまここで語られる福音という色合いを感じたいのはやまやまである。説教者も、静かに語り始めた。
 
準備ができなかった、というのには、もちろん背景がある。詳しいことを私がとやかく述べるわけにはゆかないが、亡くなった方が複数、そしてこの日の朝にはまた危篤の知らせということで、てんてこ舞いだったそうなのである。しかも、週の後半では、教会の幼稚園の大きな行事があったことも、影響している。こういうわけで、準備どころか、全く休む間もなかったのだろうと思われる。
 
子どもたちの写真も、SNSに挙がっていた。だが、私はその写真を見て、うれしく思った。子どもたちの顔が、決して分からないような形で紹介されていたのだ。この点、別のある牧師は、平気で幼稚園の子どもたちの満面の笑顔をたくさんアップするという、信じられないことを平然としていたのと対照的であった。教会の幼稚園であるからにはなおさら、そういうことをしてはならないはずである。リテラシーというものを、キリスト教界は、もっと学ばねばならない。
 
子どもたち、という視点が今日の礼拝の中心にある。そうなると、きっと多くの教会でも触れているであろう。去年からの、そして今年始まった、戦争の中での子どもたちの姿である。報道されなければいい、という意味ではない。報道されなくても、世界各地で、内戦や迫害、あるいは独裁政治のせいもあり、飢餓や難民生活という深刻な事態において、子どもたちがまず、毎日命を奪われている。いまの時代だから、報道されるようになってからは、直接的に、子どもたちが泣き叫ぶ様子が目の前に突きつけられる。
 
私たちは、それを見て心を痛める。だが、それに対して何もできない。自分の無力さを痛感する。少しばかりの良心があれば、自分がこうしてぬくぬくと生活をしていることに、呵責を覚えることもある。だが、その感覚も、連日の報道で、麻痺してくる。次第に、なんとも感じず、なんとも思わなくなってくる。自分とは関係のない世界だ、ということにしてしまう。
 
そんなことはない、自分は世界の子どもたちのことで常に胸を痛めている。そんなふうに反論する人がいるかもしれない。ひとのことを私はとやかく言わないが、もしも私の口からそれが出てきたら、私は自分を軽蔑しなければならない。自分を偽善者だと非難するだろう。
 
同じ12日、夜のニュースで、白梅学徒隊の方々が最後の同窓会を開いた、と聞いた。沖縄戦の学徒隊については、いまは説明は遠慮する。私がしばらく「沖縄病」にかかり、沖縄戦についていろいろ調べていた程度のことだけお伝えしておこう。新婚旅行で戦跡を訪ねたくらいであった。
 
九州なので、沖縄のことはローカルニュースで幅をとって報道される。その学徒隊の方がインタビューで、「テレビで、子どもたちが親に抱かれて逃げたり泣いたりしているのを見るとつらくなります。戦争は絶対にだめです」と応えていた。ご自身が体験されたことである。私はもう、頭を下げるしかなかった。そして、その直前に、実は苦しい思いで視聴していた、家康のドラマの関ヶ原の戦いの意味を問いたいと思った。
 
この世界の不条理を嘆きながら、私たちは自分の罪を嘆くところから始めなければならない。戦争を起こしているのは、この私自身ではないのか、という問いを必要としていると考える。その上で、聖書に何ができるのか、祈りたいと思っている。聖書は何を告げているか。
 
こういう悲惨な現実を前に、鬼の首を取ったように、神がいるならどうしてこんなことが起こるのか、そしてそれを見過ごすのか、と宗教を蹴散らそうとする人が現れるのも、歴史の中ではいつものことである。だがそれを言われ続けても、信仰はなお続いている。もしよければ、どうしてそれだけ言われても信仰が終わらないのか、そこに目を向けてもらったらいい、と思う。もちろん、政治的目的のために宗教を利用して、人心を操ろうとして押しつけているようなものを「信仰」とは呼ばない。自分だけ良い子になったように勘違いして、世間の人々を見下しているような態度をとることを「信仰」とは呼ばないものとしてのことである。
 
29:11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
 
神の計画がある。摂理と呼んでもいい。聖書は、人には分からない形で、神の計画なるものがある、という信仰の表明である。神には、立てた計画がある。それは平和の計画である。災いの計画ではない。そしてその平和の計画が、人に将来と希望を与えるのだ、とエレミヤは神の思いを代弁する。
 
人間の知恵だけで立てた計画は、破れてしまうだろう。だがそれを超えて、神の約束というものがあるのだ。聖書は、それを呼びかける。そして、それを信頼するという人は、決していなくなることがないのである。
 
説教者は、これを「選びとる」ことを勧めた。今日のメッセージの要であったと言えるだろう。
 
最悪の準備不足のままに語る、と説教者は最初に言った。だが、その準備というのは、霊的なエッセンスの部分ではないはずだ。どんな例話を取り上げるか、あるいは聖書箇所についていろいろな人の解釈を見たり、そもそも聖書箇所について多岐にわたる探究や黙想をしたりするか、そうした機会を失った、ということなのであろう。自分が神からこの聖書の言葉を通して語れと示された意味内容は、ちゃんと与えられて自覚しているのだ。それを丁寧に解きほぐし、またいろいろな見方を念入りに調べる時間を得られなかった、ということだけなのである。
 
むしろ、神から与えられた光は、研ぎ澄まされた形で、直裁的に、言葉となって私たちに注がれたと理解するべきであろう。この礼拝に来た。神の言葉を聞いた。そのとき、自分の頭に浮かんだ計画を最優先する気持ちがまだ残るのかどうか、が問われたのである。自分が正しい、と思ったことが、何がなんでも正しいとするべきかどうか、が問われたのである。あなたは神の計画のほうをこそ、信頼するのか。自分のすべてを賭けるほどにまで、神の計画に委ねることができるのか。
 
神の「平和の計画」を、あなたは「選びとる」のか否か。
 
幼児祝福式のために、説教者は、こう言った。子どもは「心やわらか」な存在です。それは何を意味するか。大人は、心が「頑な」だということに違いない。モーセに対して、イスラエルの民が出て行くのを認めなかったエジプト王が、その「頑な」の代表であったが、しかしあの王の姿に自分を重ねることをしないクリスチャンはいないだろう。私たちは、なんと「頑な」なことだろう。
 
そして説教の終わり近くで、説教者はこうも言った。子どもは「将来に対して、心を開いている」のだ。それは、神が与える「将来と希望」をそのまま受け容れる、ということであろうか。イエスは「子供たちをわたしのところに来させなさい」(マルコ10:14)と言ったではないか。何故か。子どもたちが、神の計画を選びとっているからであり、将来と希望へと心を開き、受け容れて、委ねているからである。
 
幼児祝福式というのは、大人が子どもたちを祝福するのではない。イエスが、子どもたちを「抱き上げ、手を置いて祝福された」(10:16)ことが、いまここで出来事として起こっているということである。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(10:15)というのも、むべなるかな、である。
 
むしろ私のような大人は、こう懇願しなければならない。「どうか祝福してください」と。
 
神がわたしたちを祝福してくださいますように。
地の果てに至るまで
すべてのものが神を畏れ敬いますように。(詩67:8)
 
どうか、神を畏れ敬うというところに立ち返り、戦争という手段をやめるべきことに、人間が気づくように、と、世界の片隅で祈っている。平和の計画の実現を、祈っている。



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