心の温度が上がる

2023年11月9日

「心の温度がちょっと上がるような、そんな音楽との出会いはありましたか?」
 
TOKYO FMの「Memories & Discoveries」のエンディングで毎回アナウンスされる言葉が心地よい。今をときめく早見沙織さんの、上品な言葉と人を癒やす声とに、火・水・木の朝は支えられている。朝4時から5時半までなので、私は当然radikoのタイムフリー機能を利用している。
 
「心の温度」。もちろん一種の比喩であるには過ぎない。音楽が心にぐっとくることは、誰にもきっとあるだろうと思うが、心の温度が上がるというのは、また特別な感覚であるように思う。なんだかもわっとしたものが現れて、胸いっぱいに拡がってゆく。やさしい気持ちになれるような気がして、幸せな気分に満たされる。うれしい気持ち、よいプレゼントをもらったような喜び、わくわくしてはいるけれど、興奮しているとまでは言えない、でも、ちょっとドキドキしているかもしれない。空を仰いで、大きく息を吸い込む。次に口が開いたときには、声にならない声が、やわらかく静かに零れていく。
 
言葉で、どう表現してよいか、分からない。自分の語彙の貧困さを恨みたくなるほどである。たとえば、ラブレターの返事がOKだったとき――心の温度は、確実に上昇しているだろう。
 
こんなふうにお伝えしようともがいているわけだが、私が苦労しなくても、「心の温度が上がる」という言葉だけで、もう殆どの方が、経験済みの実感として肯いてくださったのではないか、と思う。
 
しかし、もしかすると中には、そんな「心の温度がちょっと上がるような」気持ちをとんと感じたことがない、という方もいるかもしれない。あなたの側に原因がある場合も考えられはするが、「そんな音楽との出会い」という言葉が続いていたように、「出会い」に恵まれなかったということもあるだろう。
 
以前はそういう気持ちになれたなぁ、と昔を思い出す方もいるだろうか。だったら間違いなく大丈夫である。近ごろ機会に恵まれなかっただけである。尤も、ラブレター(今風ではないことは先刻承知)でときめくという経験は、年齢を重ねた後にはありえなくなるものなのかもしれないけれども。
 
キリスト教会で日曜日毎に語られる「礼拝説教」は、毎週、私の「心の温度」を上げてくれる。もちろんそれをもらうために礼拝説教を聞くわけではない。あくまでも神を礼拝するために礼拝に加わっている。だが、神はその都度、神の言葉とそれを取り次ぐ佳き説教者のもたらす福音とで、私の心を満たしてもらっている。
 
時に鋭い刃を以て、私の心を突き刺してくる。その鋭い刃は、心にこびりついた滓をこそぎ落とそうとがさがさ擦る。歯垢がすっきり落とされたように、キラキラに輝いた思いが、礼拝を終えた時の心の姿だ。厳しい言葉が向けられたとしても、語る神は癒やしの主である。ただの「ほんわか」や「ほっこり」(そう言えば「ほ」という息の抜ける音が、こうした安心を表すのに適しているのだろうか)ではないかもしれないが、確かに胸が一杯になる。
 
それは、ただの感情だけでもない。理性も含む心のすべてを包みこんで、私という存在を満たし、支えてくれる。注がれた言葉が神の言葉であって、命をもっているからだ。生ける水が注がれるからだ。
 
聖書「について」語ることは、いわば素人でもできる。聖書について「おべんきょう」すれば、なんとか話はできる。学校の教師が、教科書の内容について深い理解がなくても、通り一遍の説明はなんとかできるのと同様である。教科書を利用して、一定の知識を生徒に与えることをなんとかするとよい。あとは生徒がそれを覚えてくれさえすれば、教師としての仕事をしたことになるであろう。
 
だがそれは、聖書「を」語ることではない。聖書を語るというのは、「おべんきょう」ではできないことだ。教師の例で言えば、実際に化石を掘っているとか、歴史的建築を訪ね文書を見せてもらったとか、漱石を全部読んだとか、実地の深い体験がある場合だけである。聖書を語ることができるのは、聖書と出会った人である。神と出会った人である。
 
わざわざ汗まみれになって化石を掘ったとか、時間と費用をかけて現地を訪ねたとか、そんなことを自慢する必要はない。言わずもがなであっても、生徒はその先生が、本物を知っているということを、話の中から感じ取ることができるであろう。同様に、説教者が聖書「を」語っていることは、霊を受けた者は、感じることができるはずである。
 
聖書「について」話す人がいくら流暢に、「おべんきょう」したことを話しても、そこにあまり魅力は覚えない。そんな知識は、特にいまの時代、検索をかけて調べればすぐに分かる。滑稽なのは、聞く側が現地をよく知っているのに、話す方が、現地を知りもしないにも拘らず、得意気にそれをさも体験的に知っているかのように教えようとする場合である。
 
聖書「について」しか話せない人が、もしも説教壇に立って毎週講演をしていても、信徒の心の温度は上がらない。その場合、悪いのは聴き手の方ではない。だから、何の感動もない説教を聞く「お勤め」を自分は毎週しているだけなのだ、と気づくことが、先ず必要であろう。もしかすると、すでにそのことに気づいていながら、仕方なく「そんなもんか」ということで礼拝に参加し続けている方もいるかもしれない。そういう「欺瞞」は、神の最も嫌うものであることこそが、聖書には書かれてあることを、知ることもなく。
 
昔のラブレターの熱い心の経験を、遠い昔の出来事としてしか感じないのは、もったいない。神は、いまも新たにあなたに熱情を注いでいる。聖書がそれを証明している。聖書はいまここで、あなたにも、神の出来事を起こそうとしている。あなたの心の温度は、いまも当然、上がることができるのである。
 
心の温度が上がるということは、説教を聞いた後、自分が変えられている、ということである。自分が何も変わらないようなことに気づいたら、その時が機会(カイロス)であるのではないか。もしも礼拝説教が薄っぺらいものに思え、自分の心の温度がちっとも上がらないということに気づいたら、心の温度がどんどん下がり、凍りつく前に、聖書「を」語る説教を受けることのできる信仰生活へと、一歩を踏み出すべきである。命を守るために、いまできることがある、そう私は思うのだが。



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