説教で本を紹介するとき

2023年11月7日

礼拝の壇上で、説教者が本を紹介することがある。遠慮がちに、「よかったら読んでみてください」と口にする。パワーをもつ立場の者が、「読め」と命ずることは、圧力をかけることとなる。他方、牧師も教会からすると雇われの身であるとするなら、あまり思い切ったことは言えない面もあるだろう。それだから、「この本を……」と紹介するというのは、かなり勇気の要ることなのではないかと想像する。本当は、めちゃくちゃ読んでもらいたいんだ、みたいな。
 
私は素直であるのか、好奇心が強いのか、そのさりげなく紹介された本に、けっこうこだわるタイプである。どうしても高価で諦めることもあるのだが、入手しやすければ、できるだけ取り寄せる。あるいは、図書館から借りて読む。しばしば、そうやって良い本に出会うこととなった。良い本は、良い本を連れてくる。そこにはまた、良い本が紹介されてくるので、また世界が拡がるということである。
 
たとえそうでなくても、良い本に出会うのはいいことだ。さらに、その本は、私に新しい視野を提供してくれる。新しい、人との出会いをもたらしてくれる。
 
ある教会の牧師が、辞することとなった。恐らく、内部的な圧力があったことは確実である。行く先のないままに、出て行くことだけは決まった。しかし神は真実である。不思議な導きで、落ち着く先を与えてくださった。ずいぶんと離れた地だったが、逆に元の教会よりも規模も歴史も大きく、有名な教会に恵まれた。
 
その赴任先の教会にいた、ある証し人の本が最近生まれたというので、説教の中で紹介していた。
 
その若い牧師は、必ずしも優れた説教をする人ではなかった。説教を文章にすると、日本語としても非常に欠陥の多いものであった。思い込みが激しく、デマにも振り回されるところも欠点であったが、逆にそれは、ひとの言うことを真に受ける優しさの表れでもあった。
 
ただ、その人は、確かに神との出会いを経験していた。自分の見たこと聞いたことを素直に語るため、それは霊を感じる者には誰にでも分かるはずであった。あいにく、その教会の中で力をもつ人やその取り巻きが、そういう霊に恵まれなかったというために、こういうことになったのだろうと思う。
 
行動力もあり、まず誰かのために動こうという元気があった。きっと若い頃は、もっとやんちゃであったと思われるが、極めて穏やかな振る舞いをする大人になっていた。その人が薦めた本である。その道の問題に私は関心があったのと、ひとつ餞のつもりで、すぐに購入した。
 
さて、その教会でその説教を聞いていた人の中で、その本を読んだ人が、どれほどいただろう。たぶんそう多くはないような気がする。もしかすると私のほかにはいないかもしれないとの恐れもある。これから行く先の教会になど興味がないだろうし、その牧師に対する関心も、もうなかったのではないかと邪推もできる。
 
そして、その後最大限の歓迎をして呼んだ人は、私からすれば、福音を語れない、箸にも棒にもかからない者だった。でも、それを過ちだと気づくことはなかった。その教会は、命を失った。いつか、健全な信仰に目覚めたならば、そのことを死ぬほど悔やむことになるのではないか、と思う。
 
ほかにも、説教の中で本を紹介するというのは、思いのほか多い。あるゲストの説教者は、本の題名が、口で言っただけでは伝わりにくいと考えたのか、大きな紙に大きな文字で書いて、壇上で見せていた。絵本だった。笑顔が印象的だった。
 
ところが、その後の説教とその絵本とは、あまり関係がなかった。自分が感動した本を、紹介したかったということのようだった。それでも、私が調べて、すぐに図書館にあることが分かると、借りに出かけたのは、言うまでもない。通勤の電車の中で1日で読み終えたが、爽やかな風が吹いてきた。



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