甘くて、苦くて、甘い

2023年11月6日

黙示録が続いて開かれる。10章全体である。ヨハネが見せられたという、世の終わりの幻の叙述も、ひとつの山場を迎えようとしている。第七の天使がラッパを吹くことで、神の秘められた計画が成就するのだという。が、それはまだ鳴らされていない。「もう一人の力強い天使」がここでその最終段階を予告する。
 
まず、「もはや時がない」と語り始める。「時」は「クロノス」だ。特定の機会ではなく、流れる時のようなものである。「もはや遅延はない」というようなニュアンスであろうか。迫る時というのは、私たちに緊張を強いる。拍動が強くなり、掌に汗が出る。人間であれば、感覚は視覚に集中する傾向がある。何が見えるのか。しかしいまは、天使が声を以て語る。果たして本当に声なのか。つまり、耳の鼓膜を震わす空気の振動であるのか。私はどうも違うように思う。違うのだが、それを「聞こえた」と称しているような気がしてならない。
 
この場面には、天使とまた別に、天からの声なるものがヨハネに語りかける。七つの雷の声を「書き留めてはいけない」とも言っていたが、今度は、かの力強い天使の手にある「開かれた巻物を受け取れ」と命じた。ヨハネは天使にそれを貰い受けに行く。すると天使は言う。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」
 
ヨハネはそれを食べる。天使の言ったとおり、「それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった」という。そうして、この黙示録にある如く、最後の預言者として、おまえは預言をする任務を負うことを告げられるのであった。
 
「もはや時がない」、この点に説教は向かうこともできた。いまや終わりの時が進行するスイッチが入ってしまったのだろう。それは、悔い改めのチャンスが締め切られる時がくるという事実を、私に突きつけてくるような気がした。いつまでも先延ばしにはできない厳しさである。ただ、それが何年何月何日の何時、という形で及ぶのかどうか、それは定かではない。いまの私たちが気づくことのできないような、何か特殊な「時」であるのかもしれない。しかし、確かに締め切りがあるはずである。
 
説教者は、そこにではなく、巻物の方に視点を集中させた。巻物、それは文字が書かれてあるに違いない。エレミヤ書に頻出するように、預言は、まず巻物に書かれるものだった。聖書については、次第にコデックスと呼ばれる冊子の写本へと移ってゆくが、神の言葉は伝統的に巻物という見方がなされていたのではないかと思う。私たちが、忍者の秘伝が本であると恰好がつかず、巻物のイメージで捉えるのと似ているかもしれない。
 
巻物には、神の言葉が書かれてある。巻物は、神の言葉を象徴する。神の言葉は、ひとを生かす。私のモットーだが、説教者がこれを最初に繰り返し明らかにしたのはうれしかった。それを食べるということは、神の言葉を自分の血肉とすることを意味するのだという。それが「生きる」ことだと言い、肉体が朽ちてもなお神の言葉により人は「生きる」のだ、と慰める。
 
それには理由がある。先週、ひとりの方が召されたのだ。ご遺体そのものは、もはやその人ではない。しかし、その方であったそのご遺体と共に、礼拝を献げようではないか。そういう思いで、会堂の一旦に、それが運び入れられていた。神の言葉は、必ず生かす力をもっている、との慰めの言葉は、ただの口先だけのものではないことの証しなのである。
 
説教者は、この「力強い天使」の登場の姿の、一つひとつについて説き明かした。だがそれをここで繰り返すつもりはない。問題は、この天使が叫ぶのを、ヨハネと共に私たちが聞く、ということだ。聞いているだろうか。素通りしていないだろうか。
 
私たちは神を毎週礼拝する。それは、復活のキリストを称えるためである。新たな安息日として、神と人との交わりの機会をもつためである。神と人との関係を確かなものにするには、礼拝で応答が必要である。キリスト教会の礼拝のプログラムは、神から人へ、人から神へ、という言葉によるコミュニケーションから成り立っている。そして旧約聖書でもしばしば誰かが神の言葉を民に、正に神の言葉として語り告げたように、説教者は全能力を傾けて、神の言葉を神の言葉として語る。自分の思想を押しつけるためではない。自分の感想文を聞かせるためではない。そこでは、生きた神の言葉が語られているはずである。
 
ただ、説教者の語った文字面が神の言葉である、と言いたいわけではない。この「力強い天使」の声が「聞こえた」のは、音波が感覚器官を通して私たちに認識させる形式ではないのではないか、と私は先に触れた。そのように、天使の語ったものは、空気の振動云々とは独立に、私たちの霊に響くであろう。説教者語らせた言葉に寄り添うように、その背後にある神の霊が、私たちの霊に天使の声を届かせるのではないだろうか。
 
音楽は、しばしば人の感情に訴えるという。それも事実だが、音楽でなくても、何気ないアナウンスからでも、心に響くものはある。この夜、阪神タイガースが日本シリーズ優勝を決めた。私はラジオを聞いていた。胴上げのお祭り騒ぎが一段落したところで、破れたオリックスバファローズの選手が、応援するオリックスファンのスタンドへの挨拶に続いて、阪神ファンの集まるスタンドの方にも向きを換えて感謝の意を示したというアナウンスを聞いた。私はそれを聞いて涙を流していた。
 
さて、説教の焦点は、この巻物が「腹には苦いが、口には蜜のように甘い」というところに置かれた。エゼキエル書3章にも少し似た描写があり、巻物を食べよとエゼキエル書が迫られている。それを食べて預言をせよ、ということなので、黙示録はこの記事を下敷きにしていることは間違いないのだが、エゼキエル書では「蜜のように口に甘かった」とだけ書かれてあり、「腹には苦い」を付け加えたのは、黙示録のオリジナルである。
 
良薬は口に苦し、という。諺は、苦い言葉や経験が益に働く、という知恵を意味しているのだろう。しかし、口ではなく、腹で苦い、ということになっている。神の言葉は、まずは甘いのだ。しかし、腹の底では苦くなるというのだ。
 
説教者は強調しなかったが、私の想像の翼ははためいていた。かつて私がふとしたことから(とはいえいろいろあったのだが)、聖書を読んでみよう、と思ったとき、国際ギデオン協会から高校の時にもらった(それもある女生徒の力によってであった)新約聖書を開いた。美しい言葉がそこにあると思った。もちろん厳しい命令もあるのだが、それよりも、「心が洗われる」ような気持ちになって、快かった。たとえ山上の説教を読んでも、我が事だとは気づかなかったのである。正に、聖書は甘い言葉であった。
 
ところが、やがて愛の章に来た。このとき、私はまず打ちのめされた。「愛」の歌をつくり、自分は「愛」を知っているなどと勝手に思いこんでいた私が、打ちのめされた。「愛は……」の主語に自分を入れて読むことができなかったのである。このとき、聖書の言葉が腹の中で、苦くなった。
 
説教者は、こうした苦さを、否苦悩を、そしてついに死でさえも、受け容れたイエス・キリストの姿へと私たちの視線を釘付けにした。この主イエスは、重荷を取り去るというよりも、イエスの軛を負えと告げた方だった。私たちが世で苦難から簡単に逃れるというようなことを、聖書は福音などとして伝えはしないのだ。
 
床に寝ているだけの方が、楽であるに違いない。へたに信仰などもたないほうが、気が楽であるかもしれない。いっそ、キリスト者などでないほうが、神の裁きなど知らずに済んだかもしれない。だが、イエスは、床を担いで歩けと言ったし、信じよと繰り返し告げた。それに応じる者がいるとすれば、それは苦さを知った者だ。ただなんとかなるさと甘い美しい言葉に酔い痴れていることで済まなかった者だ。自分の腹に神の言葉が落ちて、自分の腹黒さと醜さに慄いた者だ。つまりは、自分の「罪」を体験したことにより、キリスト者として生まれ変わることになったのである。そうすれば、ノアの箱舟を横目で見ながら、へらへらと生きていることをせず、洪水に呑まれない生き方を選ぶことになるのだ。
 
神の裁きの怒りは、十字架の上でイエスが受けてくださった。私たちはただそれを見上げ、そこに自分とのある種の重なりに気づくとよい。私の罪は、その十字架に架けられて然るべきところへ私を連れて行くはずだったのだ、と苦い思いをするとよい。
 
その徹底した苦みの経験が、やがて再び、全身を永遠に甘いもので包んでくれることだろう。



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