見えざる教会

2023年10月28日

聖書を直接読めるということは、古代においては特別な能力の持ち主であっただろう。殆どの人にとって、聖書は「聞く」ものだったと思われる。いまでも、礼拝説教を私たちは「聞く」。
 
音声は、時間と共に一方向に届けられる。絵画と違って、音楽はその芸術性において、どうしても時間性が関わってくる。音声も同様だ。聖書を目で読むとなると、1行前に戻ることもできるが、聞くとなると、そうはいかない。つまりは、ぼーっとしていることはできない。
 
果たして、礼拝説教を、私たちはそのように、一言漏らさず聞き逃すまい、と心を傾けているだろうか。語るほうは、どれほど祈り、求め、悩み、調べのために時間をかけて労して生みだしたか知れないその説教に、聞く側はどう応えているだろうか。
 
その礼拝が、コロナ禍を通して、「リモート」という形で変化し始めている。政府のお達しに素直に従う教会は、命令されたわけではない「自粛」の文字を掲げられたとたん、「礼拝中止」の言葉さえ掲げるようになった。私には衝撃だった。
 
もちろん「自粛」の声など無視して集まればよかった、などと言っているのではない。医療従事者の家族がいる身で、医療現場がどれほど困難な情況を続けているか、それなりに知っている。コロナワクチン接種が進み、危険性が低下したかと思うと、今度は季節外れのインフルエンザの流行が拡大するなど、とんでもない逼迫があることや、そもそも小さな医院でのワクチンや薬の入手が如何に大変だか、報道からは窺い知れない様子も間近で見ている。
 
ただ、いまよりコロナ患者が遙かに少ない時点で、早々と礼拝を「中止する」という言い方をしてしまう教会があったことが、信じられなかった。
 
そこへいくと、集まれないが礼拝は続ける、という教会が少なからずあったのは頼もしかった。また、すぐさまリモートで中継するという方策を宣言した教会があり、それに倣っていった教会が次々と現れたのも、次善の策ではあるだろうが、よくぞと思った。
 
何年か前、コロナ禍前のことだが、パソコンの画面で法要を営む寺院のことがワイドショーで報道されたことがあった。スタジオの声は、どうも抵抗があるという様子であった。それではお参りした気分になれない、という感想だった。尤もなことだろうと思う。
 
だが、コロナ禍を経て、法要どころか、毎週の主日礼拝をリモートで提供するということが、当たり前のようになってきた。そもそも教会では、最初から大きな抵抗はなかったように見えた。もちろん、それでは物足りないとお思いの方も多いだろう。ネット環境にない方や、操作のできないお年寄りは、その恩恵から弾かれたことになり、いまなお寂しい思いをしている、ということもあるようだ。問題がないわけではない。
 
それでも、信徒は礼拝を続けた。それが必要だと思ったし、そこにひとつの良さを感じた人も少なからずいた。案外、人づきあいに困難を抱える心理がある場合は賛同しやすかったかもしれないし、会堂で、会いたくない人と顔を合わせずに済むというのは、安心材料となったかもしれなかった。
 
「からかい」が覗くという場合もあったかもしれないが、その中には、心惹かれる人がいた可能性もある。求める心がありながら、教会を実際に訪ね礼拝に参加する、ということに抵抗を覚える人が、インターネット環境であれば、簡単に会堂に潜り込み、礼拝に出席する、というメリットもあった。現実に人に会うということの良さには及ばないにしても、逆に人と関わるのが苦手だが教会の礼拝に出てみたい、という人が初めて参加する体験がもてたのは、良いことではなかったか。
 
すでに信じている者にとっても、たとえば一度その礼拝に与りたいと思っていた教会、「あの牧師」の説教を聞いてみたいと思っていた教会に、コミットすることができるようになった。申し込む場合が多いとは思うが、遠方の教会で礼拝することが可能になったのである。
 
そんなのは礼拝ではない、と仰る方もいるだろう。互いに顔の見える間で成り立つ、人と人とのコミュニティという側面が教会にある以上、YouTubeの画面で眺めるものは、礼拝などではない、という厳しい声もあるかと思う。だが、たとえば入院生活をしている人、足が悪いとか、年齢のために遠くの教会にまで出かけるのが困難だとかという人にとっては、リモート礼拝は、良いニュースであったのは確かだろう。そういう方々のためには、リモート中継は、たとえコロナ禍や疫病の危険がなくなったとしても、続けて実施して戴きたいと切に願うものである。
 
そのときには、そうしたネット環境においてひとつの礼拝につながっている、ということにも、意義深いものがあるということになる。それは集まって顔を見合わせる、これまでの普通の教会の姿とはずいぶん異なるかもしれない。互いに見えない関係の中で、神の言葉と賛美歌によってつながっているという形になる。それは霊によるつながりである、と言ってもよいかもしれない。
 
すると私は、ふと思った。そこに成り立っているのは、「見えざる教会」のひとつの姿ではないか、と。
 
宗教改革以来、カトリック教会に「反抗」したプロテスタント教会の中には、「見えざる教会」について声を挙げることが多くなったかもしれない。「公同の教会」という使徒信条の唱える信仰箇条は、皮肉なことに「カトリック教会」という語を用いている。「カトリック」というのは「普遍的な」というような意味である。ペトロ以来の伝統をもつ教会の呼称は優れた意味での「普遍的な」であるのに対して、プロテスタント教会は「抗議する」という、蔑称としての意味の名を掲げているのは興味深い。
 
しかし、「見えざる教会」の考え方は、宗教改革より遙か以前から神学的に考えられていたと言われている。結局、「神の国」という考え方は、この地上におけるもので説明され尽くしてよいはずがないため、私たちがいま見ているものとは違う形で期待されるべきものだっただろう。そのため、「教会」なるものも、いまの私たちには見えない形で、神を頂点とするひとつの理想的な共同体として、確かにあるものだと想定すべきだとしたのであろう。
 
ネットを通じてではある。だが、決してバーチャルな幻ではない。共に同じ時間に、同じネット空間のような場ではあっても、共通の場をもつつながりは、やはり一種の「見えざる教会」と捉えたいものではないだろうか。また、もし録画で視聴できたとしたら、日曜日に勤務する人も、後から礼拝に参加することが可能になった。それは礼拝したとは言えない、と固執する方もいるだろうが、私はその恩恵に与ったという気持ちでいる。
 
政治と結びつき、理性の自由な聖書理解を力ずくで抑圧したとする地上の教会に対して、18世紀ドイツの哲学者カントは、圧力を受けながらも、その理性に従うというモットーに従って、頑固に抵抗した。そのとき、私がいま言おうとしている意味とは異なるが、やはり「見えざる教会」というものを強調している。地上にいまある教会は不完全である。それで終わらないような姿での、神の国に相応しい姿での「見えざる教会」を私たちは想定すべきなのだ。
 
200年余りを経て、いまリモート礼拝という形でつながっている教会の礼拝を知ったら、カントはどう思うだろうか。いやいや、それもまた地上のものだ、道徳的理想には程遠い、と笑い飛ばすのではないかと思うが、それでも、ひとつの途上である、とは認めてくれるのではないだろうか。
 
理念とされた「見えざる教会」には、確かに程遠い。しかし、リモートという形でつながるものを、一概に見下すことはできないだろうし、逆に理想化することもできない。コロナ禍が招いた知恵のひとつとして、私たちが気づかされたこの形、可能ならば、教会の建物の場所まで行けない人々のために、続けてはくださらないだろうか。擬似的ではあっても、「見えざる教会」について垣間見る気持ちで、私はそれを迎えたいと思っている。どうか、実際に会堂に来ないと意味がない、というような強者の声が、弱者の声をかき消すことがないことを願いつつ。


※私は寡聞にして、礼拝中継に、手話通訳が入っているという例は、殆どお目にかかっていない。そもそも礼拝に手話通訳がついているところが少ないせいもあるだろう。しかし、会堂には通訳者がいるにも拘らず、映さないという場合もありうる。中継のときには、ぜひ手話通訳も映しこんで戴きたいと願っている。



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