さりげなく香るキンモクセイ

2023年10月26日

先日から、歩く道に、強い香りが漂うようになった。キンモクセイである。
 
子どもが「トイレのにおい」などと呼ぶほどに、よくできた香りが、室内芳香剤に使われるようになった。「ぬいぐるみのようにかわいい」というような、ある種倒錯した捉え方である。だが本物の香りのほうが、やわらかいように私は感じる。まろやか、とでも言えばよいだろうか。
 
その香りを先に感じてから、見上げると、あのみかん色の花を見る。香りが先なのである。「おや」と香りを感じて顔を上げることによって、キンモクセイがそこにあることを知る。香りで存在を知らせる力をもっている。
 
その点、薄桃色を、葉のない木に咲かせることで視覚的に存在を知らせるのが、ソメイヨシノであると言えようか。これも、さあ見ろ、というようなふうではなく、さりげなくそこに咲き始め、気づく人を起こすようなところがある。派手な宣伝もしないし、騒ぎ立てるようなこともしない。冬の終わりに、花芽が膨らんできたところから知っていると、こちらも明日はどうかしらと期待してしまう。木を見上げるものだから、そっと花開いても、私たちは気づくのである。
 
騒々しい銅鑼やシンバルで、ここにいるぞと騒ぎ立てるようなことはしない。辻でラッパを吹いて、寄付をしました、というような示威行動をとることもない。自慢をしたくなるのは人の性ではあるが、「おとな」は概して、そんな宣伝をしないものだ。少なくともこの日本の風土は、そうであった。
 
自分の存在を、人々に知らせる。そんなことに、殆ど関心のないような人もいる。全くないわけではないが、わざわざやらないということだ。SNSに投稿するというのは、知らせることであり、広く知られたいということからするはずなのであるが、反応を意に介さないタイプの人もいる。
 
なんとか「いいね」を増やしたい、フォロー者を増やしたい、そこに目的を置く人もいるだろう。だが、誰か「ひとりでも」読んでくれたらいい、という思いで活動している人もいるのではないか。私はそのタイプである。
 
それは、「ひとりでも救われれば」との思いで、聖書の言葉を伝えている人が抱く気持ちである、とも言える。礼拝説教を語る者が、人気票を得ようと当たり障りのない教科書の棒読みをすることほど、醜いものはない、と私は考える。学校の授業だって同じだ。万人にウケがいいように話そうとするばかりの教師は、素人である。そこにいる誰か一人に、分かってほしい、と語るのが、教師である。
 
実は強烈な香りを放つキンモクセイをして、さりげなく香る、などと称すのは変かもしれないが、私はその描写に、かなり共感を覚える。それは、きっと私ひとりのために、香っていたのだ。



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