語学も数学もできないけれど

2023年10月22日

それなりに不安を抱えながらも、もうひとつ勉強に集中できなかった中学三年生。ここへきて、志望校を決める段階に入ってきたことで、悩みが深刻になってくる。「先生、英語の成績を上げるためには、どうすればよいでしょうか」というような、あまりに漠然とした問いを、その女子生徒は授業後に私にぶつけた。
 
だいたい英語の劣等生たる私が、英語の授業をすることがあること自体、間違っているのだが、自分ができないことと、教えることとは、等値ではない。授業は、教える側がいかに華麗に詳細に語ろうとも、それがすべてではない。神が自らを自慢して人間の前に現れたとしても、それで人間がよくなるわけではないのと同様だ。
 
単語についてはどうか、尋ねる。それは頑張っているという。もちろん英語は、単語がすべてではないが、中学英語は限られた単語しか問われないから、ノルマを果たすことは大切だ。では、基本文は暗誦しているか、と次に私は尋ねる。ここで意外な顔をその生徒がしたので、話題をそこに集約することにした。
 
語学は語感を会得することが必要とされる。その言葉に馴染み、自分の血となり肉となるようにするのが先決だろう。外国語として捉えるならば、古文も同様である。私は百人一首を覚えていたので、古文についてはよその世界という気がしなかった。その意味では、教会で使う半世紀以上前の『讃美歌』は実にいい。古文に匹敵するからには、多少意味調べをするならば、たいそう有益だと言える。調べるという手間が、一般的には問題であるだろうけれども。
 
語学は、数学のように学習してはならない。論理的に説明し、公式を用いれば何でも動けるという構えでいたら、道を間違ってしまうだろう。私は高校のとき、それで失敗した。英語を放棄してしまったのだ。
 
では数学はものになったのか。とんでもない。学問としての数学には、ついについて行けなかった。数学科を落とされたのも当然である。しかし、いま小中学生に算数と数学を教えるのは楽しい。どんなところからでも話ができる。
 
私は、そういう私自身の個性を、数学という学問に値するものと錯誤していたのだ。だから、数学科などを受験しても、拒まれて当然だった。私が好んでいたのは、各問としての数学ではなかった。きっと、一定の数学的思考、あるいは発想というものであったのだろう。時に感性を交え、論理一辺倒に徹することができず、しかし感覚だけで済ますのではないという、学問的には極めて曖昧な形で、どういう場面においても「別の視点」を提供できることが、楽しかったのであろう。
 
かといって、全く見えていないことはある。知識においてもそうだし、ものの見方においてもそうだ。そんなことも分からないのか、と指摘されて愕然とすることもある。万事物事が分かっていないわけなので、時に自分の馬鹿さ加減に呆れ慄きつつ、それでも与えられたものを何か提供していくことで、誰かのためになるならば、と場末(末席ではない)を汚しているようなものである。



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