教師と配達員

2023年10月10日

JRの車両に、小学生が十人以上乗り込んできた。低学年だと思う。学校の行事のようである。遠足ではないようにも見えるが、そういう恰好をしている。町の見学のようなことかもしれない。教師がひとり、ついている。だが私は、ちょっと嫌な予感がした。――騒がしくなる。電車で本を読むのが常の私にとって、狭い車内で大声で喋られることほど、嫌なことはない。耳の横でがーがー話をすることが、他人の思考を破壊することについて、無頓着な大人が、世の中にはけっこういる。
 
子どもに文句をつけるつもりは、あまりない。もちろん、赤ちゃんが電車の中で泣いていることについては、全く迷惑など感じない。小学生とて、それを教育するのが大人の務めであるわけで、小学校の校庭から元気な声が聞こえてくることを、騒音のように感じることもないと思う。ただ、電車の中に低学年の子がどっと乗ってきたときに、やはり一瞬、困ったな、と思ってしまうことは否定できない。
 
私は本を読み続けていた。ところが、である。声が聞こえてこない。目を上げて見ると、小学生たちはなるべくかたまって、じっとしている。話一つしていない。ただ立っている。座る席が幾つか空いていないこともないのだが、そこには誰も興味がないようでもあった。教師も、座らせないことを前提としていたのは当然ではあるだろうが、教師がことさらに注意しているわけでもなく、ひたすらじっと立ち、互いにつかまって動かないように努めているのは、立派だった。
 
次の駅が来て、ドアが開いた。彼らは、まだ降りない。教師は、開いたドアのほうにいる子どもたちの背に手を当てて、反対側へ誘った。乗降者に一切迷惑をかけないためだった。それも、駅に到着した瞬間、実に素早いものであった。
 
その次の駅で、集団は降りた。何一つ、音を立てなかった。そして、全員が降りた時点で初めて、ホームから、教師の声が聞こえた。的確な指示を送っているだけだった。
 
見事だった。教師は事前に、そして普段から、子どもたちに良い指導をしているのだろう。と、こんなことを言うと、管理教育だとか、自由を抑圧する教育だとか言い始める人が現れるかもしれないが、公共の場での振る舞いを教えることを管理だとか抑圧だとか非難される筋合いはない。本当に怖い管理と抑圧は、もっと見えないところにある。その非難する人こそが、何かしらそうした力に操られている可能性さえあるのだ。
 
その翌日のことである。Amazonから荷物が届いた。この時代、配達業は大変だろうと思う。また、今後も法律が変わることで、難しい情況に陥ることになると予想されている。届けて当たり前、というようなでかい態度を、受取手がしないようでありたい。再配達も当然、というような考え方は戒めるべきだ。
 
その日届いたのは、息子のための腕時計だった。普通ならその後買物に行けば探せる品物ではあったのだが、それが困難であり、なおかつ急ぐ事情があったので、注文するのが一番早かったのだ。
 
A4ほどの厚手の封筒の中に、ケースが入っている。配達員はそれを玄関で私に手渡しながら、実は封筒が破れていると説明した。5pほどの破れだった。配達員は、中身を確認してくれないか、と言う。私はそれが元から破れたいたのかと確認した。封を開けたが、特にケースがどうなっているということもない。
 
配達員は、もしもこの後、何か異状があったら、また連絡してください、と言い残して去った。配達業の手際の中で、ある意味で無駄な時間を、少しばかり待っていた上での言葉だった。忙しい中で、とても好い印象を与えるひとときだった。
 
もちろん、それはマニュアルにあることではあるのだろう。小学校の教師にしても、学校のきまりとして当たり前のことだった、と言えばそれまでである。世の中では、やれ何をしてくれないとか、こんなことを言われたとか、わずかばかりの不手際を大きく言い立てることが多い。また、そういう話題がすぐにネットで広まる。少しでも自分が小さく扱われたら、相手の非を百倍にでも大きく訴えることができるようになったのだ。
 
だが、配達員や教師の、当たり前の振る舞いは、誰も取り上げない。業務を遂行することは当たり前なのであり、褒められるようなことがない。やって当たり前、失敗すれば百叩きに遭う。時折新聞が、誰それを助けたなどの記事は載せる。だが、事件が起こらないように、朝夕子どもたちの横断を助け見守っているボランティアたちのことは、当たり前過ぎて新聞もニュースも取り上げず、知らされることもない。事故が起こらなければ、認知されない。つまり、事故が起こったときに、何故防げなかったのだ、という非難が集まることしにしか関与しないのだ。
 
神さまは知っている、などとも言う。教会に通う者は、神に知られているからわざわざ人に知られなくてもそれでよい、などとも言う。だったら、私たち人間が知ったら、人に知らせてもよいのではないか。但し、福音書は、そんな知られざる信仰の光を、イエスが見出したということを、私たちに知らせてくれている。世の光が世を照らすことに、キリスト者はもっと積極的に携わることができるのだ、と思う。「あなたがたの光」とは、自分の光のことでなくてよいのだ。あなたが出会った、誰かの光であってよいはずである。



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