歴史的礼拝

2023年10月9日

2003年10月8日、日本のキリスト教会の説教は、ひとつのピリオドを打った。
 
主日礼拝に、説教をどのくらい重視するか、それは考え方が様々違うだろう。ただ、それが大切だと考える私にとって、日本の教会の説教について、これまで最も大きな存在であった方が、この日、生涯最後の礼拝説教を語り終えたのである。
 
日本の教会の説教について、この時代に、この方ほど祈り、願い、重荷を負い、そして現実に労苦してきた人はいない。そう思うのは、私だけではないと思う。その説教をライブで受けることができた。感無量である。
 
礼拝説教を受けての「レスポンス」というテーマで、私は週に一度、神に向けて祈りを言葉にしてきた。それは大抵、受けた礼拝説教がどのような内容であったか、を記すことが中心であった。どんな恵みを受けたか、それを綴ることから初めてそれへの応答が生まれるはずだった。
 
だが、今日はその原則を外すことが多くなるだろうと思う。とにかく今日、歴史的瞬間に立ち会えたのだ。その事実の前で戦き、また喜んでいるとでもいうのか、感動したとでもいうのか、言葉にならない「霊の力」に揺り動かされ続けているのである。
 
説教はメモをとるようにしている。そうするのが、記すためには必要であるのと、また後にもそのメモを見て振り返り、再び何かを受けるということを期待するのがその理由である。今日は、ふだんの礼拝の2倍のメモがノートに走った。説教者も、万感の思いなのか、1時間語り続けたせいでもあろうが、一言も聞き漏らしたくないという私の願いの故でもあった。
 
説教者は、高齢である。車椅子を用いている。近年、視力を悪くする病気を患った。殆ど見えない中で、語り続けた。そもそも、説教原稿を書いた上でも、それを覚えて説教をする、ということもしていた方である。お年を召したとはいえ、「霊の力」の助けがあることは、予想がつく。目に浮かぶいろいろな人のエピソードを交えながら、淀みなく説教の言葉は流れていくのだった。
 
伝道者としての召命を受けたときのエピソードに始まると、とたんに今現在の話になる。視力のことを話題にすると、「見えないものに目を注ぐ」信仰を掲げる。それは聖霊の働きであり恵みである。それは「霊の力」なのである。教会は、それがあってこそ生まれるのであり、それを受けた者たちの集まりなのである。
 
開かれたのは、コリントの信徒への手紙の第一、その13章であった。
 
聖書をご存じの方で知らない人はいない、有名な「愛の章」である。説教者は、この章に至る少し前のところから辿る。そうして、この「愛」が如何なるものであるかを知らせようとする。特に、12章の「異言と預言」については時間をとって説き明かした。
 
その「預言」を、教会の「説教」になぞらえたのである。これこそ、生涯をかけて取り組んできた説教というテーマについての、ひとつの結論であったのではないかと推察する。それは、13章に入り、「愛とは何か」を語るときにも、説教についての自身の行き着いたところ、願うところを語り続けたからである。パウロの筆は一息に「愛」を知らせる。
 
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 
説教のため、神の言葉の出来事を告げるため、人生を献げてきた方が、これで最後の礼拝説教、との思いで選んだ聖書箇所が、この「愛の章」であったこと。私は、もうそれだけで最初から泣いていた。
 
私が神の前に引きずり出された経験のスタートが、この言葉だったからである。
 
三浦綾子さんの『帰りこぬ風』は、必ずしも聖書や信仰を掲げたような作品ではない。友だちに勧められて読んだその本で、重要なシーンに、詩編がささやかに引用されるだけである。哲学――実は説教者も哲学科出身である――で世界を変えてやろう、西洋哲学を粉砕しよう、と意気込んでいた私だったが、聖書を通読したことはなかった。この際聖書を一度読んでみよう、と開くこととなった。新約聖書を最初に見た。そして、この「愛の章」で、自分が聖書の中に引きずり込まれたのだ。
 
最初にそこに出会った瞬間、「愛は」に、私は自分の名前を置いた。そして、自分の「罪」を知った。
 
これと同じようなことを経験したある中学生が身近にいた、と説教者は言った。しかし、自分はもう教会に行く資格がない、と嘆いて彼は教会に来なくなったそうである。説教者も同じような思いをしたのだというし、私も確かにそうだった。だが、私などは、そこから初めて、教会に行こうと思ったのだった。
 
いまなお、この愛の性格については、情けないほどダメダメである。だが、だからこそのイエス・キリストの救いであるのだ、という、厚かましくもとんでもない逆説の中に生かされている。きっとそれは、説教者も認めてくれるのではないかと思う。とくに説教者は、幾度も「無礼」という言葉を口にしていた。「礼を失せず」のかつての訳であるという。ご自身の中に何か思い当たる筋があるのだろう。私は、ひとの心を理解することができなかった。いまも大した違いはない。そういうことだと、情け深いはずがないし、自慢ぶったり高ぶったりするのは当たり前である。苛立つのはいつものことだし、何故だと恨みも抱くことになる。
 
13:8 愛は決して滅びない。
 
説教者は、ここから、永遠ということへ私たちの目を向けさせる。そして、それは「死を超える」ことだ、と捉える道を拓いた。その後、再び「預言」をベースにするところに戻り、教会の説教が、見えないものを現実に見えるように作り上げることを告げる。説教者は、これまでの様々な説教でも、しばしば教会の大切さを語ってきた。もちろんそれは建物の意味ではない。神が呼びかけ、呼び集めた者たちの結びつきである。イエス・キリストの十字架と復活を体験し、神の霊を与えられた者たちがそこにいる。その人たちはつくりかえられた。自分しか頼るものがないと根拠のない自信によって思い違いをしていたところから、「愛」の意味を知るべく救い出されたのだった。そこには「霊の力」が注がれており、人々を支え、助け起こして歩ませる。
 
私たちの中には、神がいる。その神が、命の言葉を注ぐ。それを語るのが牧師である。説教者である。私たちはそこに、「霊の力」を知る。霊が豊かに働いているのを見る。見えなかったものが、見えてくる。そして、その見えないものの中で、生きてゆく。永遠は、そこにある。
 
説教者は、説教を閉じる祈りの中で、共に集う教会員たちの歩く道を告げると共に、見えない教会を見ていたように思う。特に、辛い立場にある人を思いやり、戦争の止まぬ世を憐れみ顧みてくださるように、と祈って、それは結ばれた。たかが些末な存在としての私が感無量だなどと言っている場合ではない。説教者自身、感無量であったのではないか。また、説教者の愛弟子として、説教者の意思を継ぐべき立場の当教会の牧師もまた、感無量であったのではないか。
 
この日を以て、これまでの説教者の説教活動は区切りをつけた。明日からは、この方の説教のない時代に入る。日本の教会は、これからどうなるのだろう。どこへ行くのだろう。命の言葉は、どのように語られるのだろうか。神の言葉が出来事となる世界であり続けることができるのだろうか。確実に新たな時代に入ることになるのだが、その時代の責任は、私たちにある。私も末端から、何かの力になれたらよいのに、と願っている。いまここにいるとなれば、何らかの責任があるのだから。
 
説教者は、「あとは死を待つだけ」というようなことも口にした。だが同時に、「死に対する勇気も与えられている」と付け加えた。「勇気」は、私がもっと考察しなければならない概念であるが、それはともかくとして、もちろん明日からも、説教者は生きる。まだ説教を学び、福音を伝えようと祈り願う多くの教え子たちのために、指導をすることだろう。
 
ルターが言ったものではないはずだが、「明日世界が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木を植える」という言葉がよく知られている。ここにも一つの「勇気」がある。説教者は、その日その都度、「今日」と認識しながら、命の言葉を語る説教者たちのために、木を植えてくださることだろう。福音の種を蒔いてくださることだろう。新たな説教の現場で、「霊の力」がはたらくことを、静かに祈りながら。



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