温故知新というわけではないが

2023年10月8日

京都にも、古本屋があった。東京の規模には劣るだろうが、大学生の街だから、あるいは古書マニアがいるから、けっこうな商売だったと思う。いまなら、売れ筋の本を集めたブックなんとかというお洒落なチェーン店しか知らないような人もいるかもしれないが、私の学生当時はやっぱり「古本屋」だった。
 
独自のあのにおいがぷーんとする。狭い通路の両側に、ぎっしりと本が詰まっている。岩波の専門書は地味な函入りが普通だった。店主に相談すると、それはああだこうだと説明してくれた。こんなのがあるよ、と奥から取り出してくれることもあった。
 
目当ての本を探しに行く、というのはまず無理だった。特別に当てにしてはいないけれど、何か掘り出し物はないか、と見つけに行くのである。それは宝探しのようなものだった。
 
インターネットの力は凄い。いまでは、検索ひとつで、全国随所から、たちどころに狙った本を見つけ出してくれる。あとは「カート」に入れてポチるだけで、何日もしないうちに家に届けられる。検索で即手に入るのは、抽象的な情報だけではないのだ。
 
中古で購入することは、著者や出版社にとっては、うれしいことではない。何の実入りもないわけだし、それなりの読み手が、彼らに利益を及ぼす買い手ではなくなってしまうのだから、打撃が大きい。しかし、書店には並んでいないもの、あるいは版元ももう所有していない、というもの場合は、古書店に頼るしか読む方法がないのも事実である。かといって、書店に実際に並んでいる本であってもなお、ポチることがあるのも事実だから、言い訳はやめておこう。申し訳ないの一言である。
 
特に最近は、本もまた高騰している。学生時代、文庫本なら新刊でも1頁1円という基準で見ていたものだった。いまは学術的なものも多く文庫になって助かるが、1頁10円という、かつての専門書でも高価と目していたレベルに、文庫が近づいている。500円前後だった新書ですら、いまは千円以下の新刊を探すのが難しいほどとなった。懐事情は、庶民には最優先である。
 
著者と知り合いだということで、贈られた本がうれしくて、何千円とする本を度々SNSに挙げている人がいるが、庶民からすれば羨ましいこと限りないし、決して愉快には思わない。古書として購入した私のような者も、著者や出版社からすれば、不愉快に見えるものだろう。
 
だからせめて、本の宣伝でも携わろう、としている気持ちもある。罪滅ぼしのつもりで。
 
さて、インターネットでの古書のシステムについてだが、登録してある全国の古書店が有するその本を、価格の安い順で並べるというのは、利用者からすると画期的である。しかも送料込みで価格の低い順であるから、出費そのもののランキングである。あとは、本の状態とのバランスや、出品する書店の信用度などにより、選択することができる。私も数社、いつも気持ちよく送ってきてくれるところがお気に入りで、その書店が出していれば間違いない、と喜んで選択することがある。
 
こう便利だと、私の中の欲望に、歯止めがかからなくなる。もちろん、総額幾ら程度まで、とのブレーキはある。そうしないと生活していけない。そして、学生時代自分に言い聞かせていた限度額と、現在の限度額とは、基本的に同じくらいである。奨学金とアルバイトの中のかなりの割合が、かつては書籍代に消えていたのである。それも大抵は新刊の定価であるから、この物価の変化が、現在中古書の購入で賄われているということになる。
 
となると、その分読んでいる冊数が多くなる、ということである。学生時代は図書館も利用できたから、専門的なものも買わずに済んだ面がある。もちろんいまでも図書館は最大限に利用している。常に図書館の本を数冊ここに置いている有様なのだが、あいにく専門書というわけにはゆかない。
 
いくら欲望があるとはいえ、なんでも見て欲しくなれば直ちにポチるわけではない。値が安くなる場合もあるが、懐事情が第一である。よし、今度買おう、と思って翌朝見ると、なんとその本が誰かに買われてしまった――などということは、一度や二度ではない。古書であるために、買われたらもうそれは購入することはできない。狙いをつけたものは、もう手に入らないのだ。
 
新刊雑誌も、家の近くでは手に入らないために、注文することがある。予約注文であるが、また今度、と思っているうちに、あるとき売り切れてしまった。それを手に入れるために、別のひとに頼んで買ってきてもらうという醜態を演じたのだ。それ以来、雑誌の予約は、リストに挙がってすぐに注文することにしている。
 
読みたくなったら、読まねばならないと思ったら、購入を考える。そうやって、捨てても捨てても、本が積まれてゆく。読み返す本は、めったにない。新しい、読みたい本が次々と世の中から送り込まれてくるからだ。但し、優れた説教集は、また読み返すことがある。以前は黄色いマーカーを引いていたが、近年は専らボールペンでラインを引くから、また改めて線が引かれることになる。説教集は、読み返すのに相応しい。それも、ただ有名な人のものとは限らない。たとえば説教塾の参加者のものを集めたものは、いわば無名の各地の牧師の説教ばかりであるが、教えられることが多く、もちろんそこから恵みを受けることが多々ある。それで読み返すことがあった。
 
ところが最近、優れた説教に恵まれるようになって、説教集のみならず、説教についての専門的な本を、また読みたいと思うようになった。否、読まねばならないと思うようになった。最初に読んだときよりも、耳が肥えてきている。これでまた、説教論の意味が別の意味で理解できるようになったような気がするのだ。
 
そう考えると、また読みたいと思える本が、ずいぶんといまこの私の背後に並んでいることに気がついた。これは宝ではないか。また読み返そうと思った。これらの本を半ば憎しみを以て苦々しく見つめている妻が言う。「天国に本は持って行けないよ」とは、真実そのものだ。せめて、良質のものに触れ続けていたいではないか。だとすると、良いものにいま一度触れるというのは、経済的にも、本の置き場のためにも、優れた道であるはずだ。
 
がむしゃらに食べるのではなく、美味しいものを少し食べる。それが、年を取った者にとっての食事というものであるという。本も、同じかもしれない。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります