安息日とは何か

2023年10月4日

安息日とは何だろう。ずっと気になっている。そもそも「安息日」の「日」は何と読むのがよいのだろうか。聖書により、「び」「にち」「じつ」と、なんと3種類あるのだ。
 
もちろん、それは「休みの日」である。キリスト教徒は、日曜日を安息日だと呼ぶ。元々は、旧約聖書の時代に、神が世界を創造したときに7日目を休んだことから、7日目を人間も安息せよと命じたことに基づく。但し、このときには土曜日が安息日であった。いまでも、ユダヤ教文化では土曜日が安息日である。
 
土曜日とは言っても、現代の私たちの刻み方とは少し異なる。日没から1日が始まるという考え方なので、私たちのカレンダーで言えば、金曜日の日没からが安息日となる。福音書でのイエスの十字架と埋葬にまつわる展開も、この安息日が重要なポイントになっていた。
 
ユダヤ教の本筋では、いまもなお安息日規定が社会生活に生きているという。料理は作り置き、というような個人的な部分は、習慣化すればなんとかなりそうだが、エレベータは操作禁止で各階停止などとなると、社会全体が自動装置化しなければならなくなるのだろうか。医療や災害についてどうなるのか、私は知らないが、非常時の対処はきっと何かあるのだろう。すでに「旧約聖書続編」の中でも、安息日に戦闘を認めるようになった経緯が描かれている。
 
キリスト教では、イエスの復活の日曜日の朝に合わせ、それを礼拝の時とし、安息日だと理解した。旧約の規定とは異なることになるが、それを正統としたものだから、ヨーロッパでは、日曜日には商店が営業できないなどの法律を実施していた時もある。
 
しかしもちろん、社会全体が日曜日に止まるような、ユダヤ教的な勢いはなかったようである。映画「炎のランナー」が、やはり印象的であった。安息日だからオリンピック競技に出ないと宣言したエリック・リデルは、英国全体から、狂信者と罵倒されていた。1924年のパリ・オリンピックでのことである。来年で、それから百年を数えることになる。リデルについては、日本とも深い関わりがある。というより、日本人が殺したようなものだった。
 
教会は、ごく一部のグループを除いて日曜日に礼拝を行う。「主日礼拝」とか「聖日礼拝」とか呼ぶが、「日曜礼拝」と呼ぶこともあるように、基本的に日曜日であり、午前である。しかしその設定は、欧米の習慣に基づくところがあるらしく、日曜日の勤務の人のために早朝にも礼拝を行ったり、午後や夕方にも行うなど、配慮に基づく場合もあるようだ。海外で「メガチャーチ」と呼ばれるところになると、必然的に礼拝を分けないと人々を収容できないという事情もあるらしい。羨ましいくらいだが。
 
クリスチャンにとって、この日曜日の礼拝に出席することは、義務のようなものである。否、「あった」と言うべきだろうか。健全な信仰生活を続けるためには、日曜日には仕事をしない、というのが大きな課題となっていた。私もまた、そのために特別な働き方をすることとなった。出世も収入も完全に無視して、平日だけに力を注ぐという特別な条件を取り付けることとなったのだ。だが、必要な分はなんとか与えられるよう、恵まれたのであるから、その点は誰かにお薦めできるものではない。家族に迷惑をかけたことにもなるが、それが信仰の証しだとも理解してもらっていたし、私自身もそう理解していた。
 
自分でそのように考えることについては、自分と神との間の問題である。だが、他人がそのことに干渉することはできない、と私は思っている。日曜日に仕事をして教会に来ないクリスチャンを非難するような真似はしてはならない、ということである。まして、日曜日に仕事をしている世の中の人々を見下したり、罪人呼ばわりしたりするなど、もってのほかである。そのように言うのは、一部の潔癖な教会や教義において、あるいは個人において、そのようなことが実際あるからである。
 
自分は日曜日に安息日を守っている。それは嬉しいことだろうが、さて、教会に行くときに、電車やバスを使うとすると、そのために働いている人々がいることになる。教会で昼食に、弁当屋さんに注文して届けてもらうということもしていた。催しで午後からレジャーのような行事をして、食堂で、その昼休みにさしかかる時刻に無理して入らせてもらったようなこともあった。
 
これは私もまたいま普通に行っている習慣であるが、礼拝の後で買物をするという人も多いだろう。私の場合は、夫婦揃って買物に行ける機会が、週の中で限られているためにそうなるのだが、これがもし、日曜日に営業がなかったとしたら、生活がやりにくくなることは必定である。
 
果たして交通機関や弁当屋さんやショッピングモールで働いている人の中に、クリスチャンはいないのだろうか。そこまでクリスチャンが少ないようには思えない。生活のためには、私のように特別な条件をとりつけるようなことができないために、礼拝に行きたいのに働かなければならないという人もいるだろう。その人たちのおかげで、私たちもまた生活ができている。教会の活動ができている。それを見下すようなことが、できるわけがない。
 
それでもなお、礼拝説教で、無神経に単純に語る人がいるかもしれない。安息日を守らないのは罪です、などと。
 
自ら日曜日に勤務のために礼拝を休む必要のない牧師の中には、日曜日の礼拝の時刻を確保するために、収入できる分を献げたり、社内での立場を悪くしたりして涙を流している信徒がいることを、あまり気にしていない人がいるかもしれない。そうして、実のところ牧師という職業ほど、日曜日に勤務している仕事もない、というパラドックスにも気づいていない人がいるかもしれない、と邪推する。
 
学生から神学校に進み、そのまま教会に就職して「先生」となった場合、ますますその懸念がある。近年は牧師の給与を巡る問題は深刻で、報酬が出せないという教会も少なくないという。他方、恵まれた教会は、ふんだんに給与が出せる場合もあり、その恩恵に与ると、労働の厳しさを経験したことのない牧師には、実質労働者たるものの置かれた情況が分からない部分があるかもしれないのである。
 
もちろん、ケースバイケースであり、私が挙げている例が極端なものであることは当然である。これは標準ではない。もしかするとそういうことがあるのではないか、という可能性の問題である。牧師たるものが皆そうなのだ、というような偏見をもって戴きたくないし、そのような意図は全くない。
 
ただ、これは牧師だから信徒だからというのではなく、信仰をもつというすべての人にとり、考えるきっかけを与える問題ではないかと思う。安息日とは何か。それには、画一的な解答は与えられないだろうと思われる。それは律法にあることであったが、イエスが幾度も語ったように、律法の規定にがんじがらめになると、正に律法的に人が人を支配する道具のようにも変化しうることになるであろう。
 
たとえ「安息日」という規定をやめてしまおう、という方向で話が進んだとしても、礼拝に加わること――なぜか礼拝を「守る」という言い方が普遍化しているが、この「守る」ということについてもさらに問う必要があるだろうと思われる――の問題がなくなるわけではない。そしてそのうえでなお、私は「安息日」という信仰は必要だろうという気がしている。もっと信仰的な次元における意味で、のことであるが。
 
やはり、問うことが必要ではないだろうか。安息日とは何か、と。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります