ウーアイ

2023年10月2日

黙示録は8章にさしかかる。一時小休止を迎える。しばし風が止む。天使の手に渡された香が、聖なる者たちの祈りに添えて献げられることになる。香の煙が静かに神の許へと立ち上る。聖なる者たちの祈りも立ち上る。すでに黙示録の5章で「この香は聖なる者たちの祈りである」とのイメージが描かれていた。
 
私はこのイメージを、教会のポスターに使ったことがある。ずいぶん昔のことだ。私たちは、祈るべきだ。祈りは天に届くだろう。そんな気持ちで作ったのだろうと思う。
 
説教者は、そんな甘いムードに流されはしなかった。ここには「聖なる者たちの祈り」とあるではないか、と指摘した。いったい、誰が「聖なる者」なのだ。説教者の厳しく告げた言葉が刺さった。「私たちの腐った祈り」「罪にまみれた祈り」が、芳しい煙になると思っているのか。
 
だが、私たちがそのような自らの祈りを心底悲しむとき、神は受け止めてくれるに違いない。イエス・キリストが、そのための献げ物となったからである。十字架を前にしたイエスの体に、あの女が香油をたっぷりと注いだからである。
 
やがて、凄惨な風景が目の前に現れる。天使が吹くラッパを合図にして、世界の三分の一が壊れてゆく。福岡市動物園の前に、ラッパを吹く天使の像が金色に輝いている。モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)の神殿の屋根である。子どもたちの目に必ず入るのは、なかなかの宣伝となるのだろうか。それとも、動物園なんぞに来る者たちは、このラッパによって滅んでしまうのだ、と警告しているのだろうか。
 
ラッパとは何か。想像がつかない。何かしら、合図があり、また「けじめ」がある、ということなのだろうか。ここにある「苦よもぎ」は、かつて物議を醸した。1986年4月26日、現在ウクライナ国内にあるチェルノブイリ原子力発電所が、突如爆発事故を起こしたのである。当時信仰においては新米であり、終末を強調する異端的に偏ったグループに通い始めていた私の耳に、しきりに、チェルノブイリがこの苦よもぎである、というセンセーショナルなメッセージが繰り返し流れてきた。事実は、どうやら違うらしい。苦よもぎに近いけれども別の草を表すようである。
 
黙示録は特に、現実の出来事と照合したくなる誘惑に陥りやすい。想像するのは自由だが、それを解釈にまで高める必要はない。安易に当てはめて、これが真実だ、と叫び始めたら、怪しんだほうがいい。その思いに煽られたカルト集団が、世界各地で不幸な事件を起こしている。
 
説教では、山浦玄嗣医師が紹介された。教会に以前いらしたことがあるのだそうだ。特に有名になったのが、東日本大震災で大船渡市の山浦医院が被災してからではないかと思われる。私もそのときに知った。被災しながら治療にあたった姿と、その信仰のことが紹介されたのだ。カトリック信徒である。震災以前から、「ケセン語」で聖書を訳すことを試みていた。大船渡周辺の「気仙」と呼ばれる地方の方言を、ひとつの言語として扱ったのである。
 
聖書、特に福音書については、『ガリラヤのイェシュー』という翻訳がいちばん面白い。現地の雰囲気を日本語に適用するために、日本各地の様々な方言を福音書の登場人物に喋らせている。ガリラヤ出身の人々は、東北である。私もその意見には賛同する。気候や風土の条件に加え、ペトロが東北訛りだったら、鶏が鳴くシーンにぴったりのような気がするからだ。しかし、東北などと一括りにしているのではない。ケセン語・仙台弁・盛岡弁・津軽弁。鶴岡弁と細かく分けられている。エルサレムの人々や祭司たちは京都弁であり、ギリシア人は長崎弁なのだ。凡そ通じない鹿児島弁がローマ人であるというのも面白い。『ガリラヤのイェシュー』の解説書として、『イチジクの木の下で』の上下二巻がある。独自の解釈も多々あるが、いろいろ教えられることが多い。
 
山浦さんは、津波の惨状に怯まなかったという。ボランティアとして他の地域から来た人々が、神がいるならどうしてこのようなことが、と問うたときにも、地元の人にとり津波はこれまでもあった、ある意味で当たり前のことだ、と対したそうである。
 
神から与えられる何事においても、キリスト者は任務を負っている。世界の三分の一が壊れようとも、キリスト者は神の僕である。言うなれば、神の国の大使館員である。それぞれの国や地域で、神の国の大使館が設置されている。そこにキリスト者は任務を帯びて派遣されている。元はどうしようもない人間だった。神の国に最も相応しくない者だった。但し、自分がどうしようもない者だと覚り、絶望しかない状態の中で、イエス・キリストに救われた。イエスがそんな私の罪を引き受けたのだ。
 
しかしながら、大使館員としても私は三流である。仕事はさぼる、仕事をしても失敗する、失敗したら言い訳をする、まことに「腐った」報告しかできないのである。それでも、役職が与えられている。神のほうから辞令を発したのだ。祈りは、私たちからの報告であると共に、神からの辞令や指示でもある。もし私の祈りが香として立ち上ることになったとしても、それとは比較にならない助けが、天から注がれているに違いない。
 
説教者が、そんな神から、任務を与えられることを強調した。「任せた」と。とても私は「はい」などとは言えない。説教では、「任せとけ」と返答すればよいのだ、というように励ましてくれたのだが、逃げ出したいくらいだ。だが、逃げることもなく、いまここにいる。いなければならない。せめて、できるだけさぼらないように、言い訳をしないように、淡々と歩んで行くようにしたい、と願っている。
 
そして今回の説教では、なんといっても、ある言葉が幾度も繰り返されて耳に残るようになっていた。「ouai(ウーアイ)」である。
 
8:13 また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」
 
「不幸だ」、これが「ouai(ウーアイ)」である。嘆くときの声がその由来であろうと考えられているが、新共同訳では基本的に「不幸だ」と訳されている。他には「災いだ」のような訳し方もある。日本語でも、顔を歪めて「うわぁ」とでも叫べば、それらしくなるだろうか。
 
礼拝説教で、繰り返し聞きたい言葉ではない。「祝福」「喜び」「愛」といった言葉なら、幾度繰り返されてもうれしい気持ちになるものだが、今回の説教では、延々と「ウーアイ」という言葉が挟まれた。何かと言えば「ウーアイ」であった。気持ちが沈むではないか。
 
だが、教会で「罪」という言葉が語られなくなる傾向にあるのは確かである。昔は、教会に行くとやたら「罪」「罪」と言われるので不愉快になる、もう行かない、といった声が聞かれることがあった。しかしスポーツ選手は、メンタルトレーニングの中で、自分は勝つ、と積極的なことばかり思い浮かべて競技に臨むのが現代のやり方だ。最近とくに若い世代で活躍する選手が現れているが、きっとそういうことなのだろう。そこで教会でも、「罪」という言葉を出すのがタブー視されているのではないか、という懸念がある。それを言ったら若い人が逃げて行く、と。
 
これではまるで、「罪」を語る教会の礼拝に毎週出席する人々は、マゾヒストみたいである。教会は、卑屈でルサンチマンにまみれた年寄りだけが集まる場所になりかねない。そこへきて、この「ウーアイ」の連呼である。
 
特にマタイによる福音書では、ファリサイ派の人々や律法学者との対決が際立たせられているので、彼らに直接、あるいは彼らをモデルとして、この「ウーアイ」が多々イエスの口から語られる。しかし、神の呪いを受けるかのようなその響きとは裏腹に、説教者は、これを慰めの言葉へと旋回させる。
 
ひとり子を世に送り惨殺させた父なる神の痛みや悲しみは、如何ばかりだっただろう。もちろんイエス自身、血の汗を流したばかりか、なぜ私を捨てたのか、と本当に血を垂れ流しにされた。神が、私たちと共に嘆き、悲しみ、不幸を背負ったではないか。
 
津波に限らない。パンデミックもまだ終息したわけではない。暴動のニュースが流れ、洪水の爪痕は癒やされない。過労死の危機にある人、経済的困窮で明日が見えない人もいる。スマホはあるが食べ物がなく飢えている、ということもあるだろうか。人に憎まれいじめられ、精神が壊れそうな人もたくさんいる。
 
逆に、私がそうしたことを起こしている、という視点を欠くことはできない。そのことに気づかず、のほほんと無邪気に幸せを覚えているというのが、キリスト者の「喜び」であるようには思えない。正に自分こそ「災い」の張本人である可能性を、片時も忘れてはならないのだ。
 
「ウーアイ」を忘れないようにしよう。ごまかさないようにしよう。マタイが「ウーアイ」だと指摘したことを、いま一度拾い上げて戒めとしよう。必ずしも一筋の流れを辿りながら進み行く説教ではないし、伏線を回収することを目指しているのでないために円く収まる説教ではないのだが、その投げかける棘や引っかかりが、聴く者の心にささくれ立ちながら、目を覚まさせてゆく。このとき私は、茨の冠をかぶせられたイエスが、「目を覚ましていなさい」と度々告げていたのを思い起こす。



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