書くこと

2023年10月2日

「問題をよく読みなさい」とだけ生徒に言っても、「読んでるよ」としか答えようがない。しかし、現に読み間違いがあり、なかなかなくならない。
 
文が実は読めていない、という衝撃的な事実を提示したことで、『教科書が読めない子どもたち』といった本は、一時的に話題を蒔くことができた。だが、事の深刻さは世を変えるほどには至っていないように見える。その本を著した新井紀子氏は、AIの研究家である。その研究過程で、子どもに限らないが、人が実は文章が実は読めていない、ということを明らかにした。
 
読むだけではだめなのだ。小学生には、そのような抽象的な言い方では通じないので、私は専ら「書く」ことを命じている。「よく読む」とは「よく書く」ことにほかならないのだ、と。
 
線を引く。まずはそこからでいい。しかし、「大事なところに線を引きなさい」と指示すると、国語の文章全部に線を引いた猛者がいた。見にくくて仕方がなかろうし、「大事なところ」が分かっていないことをも露呈している。
 
鍵になる語を四角などで囲むのがいい。また、それらの語の関係を示すために、行をまたがってよいので、線で結びつけたり、矢印を引っ張ったりするように指導する。番号を振るのもよいし、同義の語を関連付けることも必要だ。
 
とにかく、何か「書く」こと。文章の中の要点となりうる語、筋道を示す道標となるような語を際立たせるようにするのだ。「読む」ことが単に目で追うことであれば、それは表面上を上滑りしているだけであることが多い。哲学を少しでも学べば、その辺りのことは痛みを以て体験することだろう。哲学を学ぶとは、過去の思想を眺め、有名な言葉を暗記することではないのである。
 
教会の説教をノートする人がいる。だが、礼拝説教を「書く」ことを良しとしない説教者もいる。しっかり聴いていろ、書くことは自分の捉えたものを書き留める作業であって、外から聴くよりも自分の考えを含めてしまうから、神の言葉を聴くことに専念せよ、という考えの人もいるそうだ。それも一理ある。しかし、外から聴くからこそ、それを誤解しないように書き留めたい場合もあるし、神からの呼びかけに対して、その都度レスポンスする自分がいたとしても、悪いことではあるまい。
 
むしろ、礼拝は神と人との応答である(だから礼拝プログラムは、「神から」のものと「人から」のものとが交互に織りなすようにできている)、という基本的な理念に立つならば、神からの説教の言葉と、聴く私とは真っ向から相対しているのであるし、神から「どうだ」と迫られたら、「こうです」と受け答えしていくのが当然の筋道だとも言えるだろう。
 
さらに利点もある。私のように鈍い者は、聴いたその時に何か思ったり、感動したりしても、馬の耳に説教のようなもので、右から左に貫いて通り過ぎていくことが度々あるのだ。それを書き留めていると、また見返して「そうだった」と思い起こすことができる。あるいは、自分のメモを見直したときに、改めて「なるほどそうか」と気づかされることもある。
 
できればそれは、ひとつのノートに連ねていくとよい。時にぱらぱらとめくることで、かつて聴いた説教のエッセンスが、再びいまこのときの自分に響いてくることもあるし、いまの自分を助けるということもある。聖書を度々読むということにも匹敵するような姿勢だ、と自分では考えている。
 
もちろんそのためには、その説教が神からのものであるという前提がある。語る者自身が神と出会い、示されたことを語っている必要がある。聖書のお勉強をして説明するようなものなら、何も書き留める必要はない。聖書を解説する本は、世にはいくらでもある。神と出会った経験もない者は、いくら熱心にお勉強をしても、そのような「説明」しかできない。それを説教だと勘違いさせられ続けるならば、信徒は被害者となるし、そのような教会にひとを誘うと、今度は加害者にもなりかねない。
 
命ある説教を語っていても、説教を真摯に聴いている人は、会衆の中で1割か、多くて2割ではないか、と嘆く説教者もいる。割合はどうであるか、私には分からない。私として、真摯に聴いているのかどうか、自分では判断できないと思っている。語ったことの一文でも、生きる力になるのであれば、語った意義は十分にあるのかもしれない。学校や塾での授業にしても、そのようなものだからである。
 
今週あなたの聴いた礼拝説教は、どんな命を与えてくれただろうか。説教全部をメモするのでなくても、何かしらちらりとでも書いておいてはどうだろう。一言のメモでもよいから。



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