【メッセージ】教会とはなにか

2023年10月1日

(コロサイ1:18-25, 出エジプト12:14-17)

また、御子はその体である教会の頭です。
御子は初めの者
死者の中から最初に生まれた方です。
それは、ご自身がすべてにおいて
第一の者となるためです。(コロサイ1:18)
 
◆教会という言葉
 
また、御子はその体である教会の頭です。/御子は初めの者/死者の中から最初に生まれた方です。/それは、ご自身がすべてにおいて/第一の者となるためです。(コロサイ1:18)
 
コロサイの信徒への手紙については、近年の研究者は、パウロ本人の言葉や考え方とは言い難い、という結論を下しています。ひとつの見解です。しかし私たちは、パウロを神として信仰しているわけではありません。キリストについての証言を受け止めれば十分です。
 
ここでいう「御子」は、「キリスト」と読み替えて差し支えありません。教会はキリストの体であり、キリストは教会の頭である、と言っています。今日は、この「教会」というものについて、しばらく見つめていたいと願います。
 
「教会」は中国では、「教えられて分かったこと」のような意味をもつ、と言われます。キリスト教の教会には限らないかもしれません。もちろんキリスト教会をも表すはずですが、建物の方は「教堂」というそうですから、むしろ組織や人々のことを「教会」は指すのでしょう。
 
その中国語の使い方を取り入れたのかどうか、歴史的な経緯は知りません。日本語でも、この「教会」という言葉が使われています。そこにはどうしても「教える」という漢字のイメージが染まっていますので、そのことで誤解されたり、誤解していたりするようにも思われます。
 
元の言葉では、その語は、もちろん建物でもないし、教える場でもありません。人々の集まりのことを指しました。ギリシア語では元々「民会」のような政治的場面で用いられた言葉でした。キリストの弟子たちにおいても、キリストに呼び出されて集められた人々のことを示す言葉であったと思われます。
 
しかしその後、それは「教える」場にもなったし、高く聳える塔を有つ建物を意味するようになりました。バベルの塔のように、天を目指すかのようになっていなければよいが、と案じます。
 
◆名
 
礼拝説教で社会問題を取り上げるのは、適切ではない場合が多いとしばしば言われます。問題に対しては、いろいろな意見があります。説教者の政治的立場が社会にとり必ず正しいとは限らず、それとは反対の意見をもつ信徒もいるはずです。しかし説教者は、「神の言葉」としてそれを語る立場にいます。その意見に反対する人を、神に逆らうような図式に押し込むことになります。このことに気づかない教会も、世の中には多々ありますし、社会的意見を述べたほうが真に人々を愛することになる、と勘違いしている人もいますので、ここは押さえておかなければなりません。
 
しかしながら、今日は少し旗色を変えて、敢えてお話しすることにしました。そうしないと語れないことがあると考えたからです。批判の矢を向けたようになった対象の人々からは、不愉快極まりない言い方をすることになろうかと思います。その人たちを弁護する方々から、一方的だと嫌悪感を抱かれるかもしれません。必ずしも自らを正義として、その団体や組織を攻撃しているのではないつもりですが、そのように聞こえたならば、どうかお許しください、としか言えません。私としては、ほかに言わねばならないことがあるのです。そのための手段のようにされたことにお怒りでしたら、申し訳ないとしか言えません。
 
何のことをお話ししているかは、恐らくきっと分かることでしょう。ただ、聖書の理解と教会を建て上げることを主眼として、触れさせて戴こうかと思います。また、これを取り上げることで、一部には非常に傷つく人がいることも予想されます。その点については弁解を致しません。ただ、ごめんなさい、とだけしか言いません。
 
芸能会社の創業者がかつて社内で、自分の欲望のために若い人を傷つける行為をしていた、ということが発覚しました。創業者が存命のときの行為ですが、社内ではそれをなんとなく知る者もいたけれども、止めることはできませんでした。創業者の死後、それを訴える声が上がり、芸能会社もそれを公的に認めました。
 
社会は、女性への暴力については、いまなお甘過ぎると思います。男社会の故だとは思います。ハラスメントなどという軽々しいものではないレベルのことも、実に軽視されていると私は思います。この芸能会社の問題が深刻であるなら、ぜひ女性の問題をも、男社会は反省し、摘発や防止、補償などに動いていくべきだと考えます。尤も、先に自ら述べたように、これも社会的な意見であり、反対意見の人もいようかと思いますので、これ以上深入りしないようにします。
 
さて、いま触れたい問題はまず、この芸能会社が、創業者を指す言葉の付いた社名を変えてはどうか、という点です。新社長を掲げて再出発をするという記者会見は、決して誠意のないものではなかったと私は思いますが、この会社名に関しては、疑問をもちました。「変えない」と会見の場で明言したからです。
 
これは、「名」というものを軽く見ているものだ、と私は見たのです。もちろん会社としては、その「名」がひとつのブランドにもなっている、という論理をもつこともできます。しかし、その名を掲げる限り、特に膨大な数と言われる被害者とその関係者は、たまらないだろうと思います。名はやはり本質を表すという意味でも、忌まわしいと認めたその犯罪を象徴しかねない会社名は、たとえ即刻決められないにしても、近い将来に変更の方向で検討したい、とでも記者会見で言えばよかったのではないでしょうか。そのため、火に油を注ぐような事態となり、その後ようやく名の変更を発表することとなりそうです。
 
Facebookも会社名を変え、ツイッターでさえ、変更しました。もはや「名」を変えるということについて、世の中は必ずしも偏執的な対応をしなくなっています。野球でも、福岡がホークスを受け容れるのも、ホークスファンが球団名を変えるのも、あのころは辛い気持ちがしたかもしれませんが、球団名やチーム名が変わるのもよくあることです。
 
では「教会」の「名」をやめよ、と言われたら、どうするでしょうか。モダンな感じがするのかどうか知りませんが、「チャーチ」と呼ぶところもあります。「チャペル」という名を掲げる場合もあるでしょうか。「チャペル」は、建物を意識させますね。「無教会」のグループでは、意識的に「教会」を避けますから、「集会」と呼んでいるようです。
 
これは団体名を明確に出しますが、「統一協会」というところが、近年ようやく注目されるようになりました。報道機関は「統一教会」としていますが、元々「教会」とは彼らは称しておらず、「世界基督教統一神霊協会」でしたから、「統一教会」と略す理由はありません。70年ほど前に韓国で設立し、60年ほど前に日本で宗教法人格を取得しました。当初から数々の社会問題を起こしていました。
 
その組織はこれまでも盛んに名前を変えた団体をつくっては人々に近づき、日本から金を集めることを繰り返していましたが、近年ますます、いろいろな名前を使って団体を増やしています。こうなると、もう少し「名」にこだわった方がよいのではないか、と言いたくなりますが、これは恐らく、「名」を隠すことで、「本質」を覚られないようにしようという狙いであるのでしょう。
 
◆忖度
 
芸能会社の問題では、その会社やタレントを取り囲む者についても、考える余地があると言われています。あまり単純に素人が言ってはならないとは思いますが、芸能プロダクションからは、視聴率を取れるタレントを多く供出してもらう立場にあるテレビ局ですから、証拠もなくクライアントを悪く言うことができない体質があったのではないか、ということです。いうなれば忖度だらけの関係ということでしょうか。そこからの取材記事で生計を立てているようなマスコミ関係も同じようなことです。誰が猫の首に鈴を掛けるか、というよりも、誰かが必要なら言うだろう、と互いに遠巻きにして事なかれでいた、ということでしょうか。
 
しかし、事が一度、その非業を認めた立場となったからには、今度はマスコミ側の立場が強くなります。芸能グループが犯罪性を明らかにしたとなると、「あんたらは……」と酷くなじるような記者が何人かいました。報道機関がこの問題に関わっていないとは思えないのに、立場ひとつで正義の味方になってしまう姿に、私は醜さを覚えました。
 
NHKは、検証番組をつくりました。どうして自分たちがこの問題を見逃してしまったのか、いわば反省する立場からのものでした。追及は不十分である、との批判もありました。隔靴掻痒だとやわらかではあっても、厳しい批評もありました。けれども、記者会見での怒号による自己正義感に比べると、どれほど事態に向き合っているか、意義を感じます。そしてこれは、自問の完成ではなく、ほんのスタートに過ぎないだろうと思います。まず必要だったのです。自己を問うこと。自分の中の悪を見いだすこと。それさえもできないよりは、スタートを切るには、必要な第一歩であったと思うのです。だから、それは教会にとっても、私個人にとっても同じだ、と感じました。
 
◆無関係ではない
 
これは、宗教と政治の問題についてもそうでした。日本の宗教教育の「無さ」が背景にひとつあることを、私は常々感じていますし、憤りも覚えます。しかしそのことは、いまは立ち入りません。それよりも、この1年余り、騒がれたりくすぶったりしている、政治と宗教の関係について、少しだけ立ち止まってみたいと思います。
 
日本は韓国に対して悪を為してきたから、今度は日本に対してどんなことをしてもよいのだ、というようなところから始まったこの教団の姿勢が、どうして日本の保守政党と結びついたのか、そもそも不思議なところです。日本の政治家たちが、宗教に対して無知であったということなのだろうか、とも思います。
 
政治権力と結びつくと、「信仰の自由」を掲げれば身を守れます。弁護士やジャーナリストたちが、半世紀以上前から、そのおかしさと命懸けで闘ってきました。私の案外近いところにも、教団に吸い込まれていった人がいます。その怖さは、ずっと前から認識していました。しかしそれに対して私は何もできなかった。時折警告を発することはあっても、何ら力になるようなことができなかった。勇気のないことだった、と省みるばかりです。
 
社会がこれを認識し、何らかの輿論を形成するためには、元総理大臣の死という犠牲が必要となりました。お気の毒としか言いようがありません。社会問題としてそれはずっと前からあったということに、キリスト教界の一部は気づいていましたが、いまなお大学生が次々と招き入れられているということに、危機感を覚える教会は稀でした。むしろ大学側のほうが、新入生にその勧誘について十分注意するように、入学式の場で実態を示すビデオを流したり、度々注意を勧告するなど、強い実感を以て対処していました。
 
統一協会に対しても、私はこれまで何もできませんでした。芸能グループについても、知らなかったとはいえ、何かできたかもしれない、と悔やみます。もしかすると、噂を耳にしていながら、全く気にしていなかったのだとすれば、責任は小さくないと思います。マスコミが何もしなかったということすら、視聴者やファンは、安易に非難囂々というわけにはゆかないのではないでしょうか。
 
◆教会と歴史
 
いつもながら、回りくどいことばかりで済みません。神の言葉を聞くとなると、純粋に聖書の話をすればよいようなものを、しばしば私は、現実の問題に対する中で、神の声を聴くということをしています。そして、キリスト教自体が、何か思い当たるところはないか、ということも気にするわけです。
 
そうです。教会もまた、こうした歴史をもつのです。権力と結びつき、あるいは誰も誤りを指摘できないような忖度の立場に身を置いて、酷いことが行われていてもそれを正義だとして助け続けてきたことがあるのではないでしょうか。敢えていまそれを羅列するようなことは致しません。例示してみることもしません。しかし、近年も、またいまでも、戦争を先頭に立って鼓舞していたのは、教会というものだったのではないか、と問いかけてみたいと思います。
 
どうして教会がそんなことをしたのでしょうか。それは、人々の集まりであったかつてのエクレシアが、組織としての「教会」になったことに、一つの重要な意味があるような気がします。イエスに従う弟子たちの集まりでは済まなくなったのです。私たちは、権力と結びついた組織的な教会の重みと痛みを感じつつも、改めて従来の通りの、人の集まりである素朴な「教会」を想定して聖書を読んでいくつもりです。その「教会」という訳語が、もうひとつ誤解を招くものであることに気をつけながら。
 
18:また、御子はその体である教会の頭です。/御子は初めの者/死者の中から最初に生まれた方です。/それは、ご自身がすべてにおいて/第一の者となるためです。
 
素直に聞きましょう。これだけで、今日はもうよいのではありませんか。これだけで、今日は喜びとしたいくらいです。念のため触れておきますが、「御子」とはキリストのことであり、そのキリストが私たちの「頭」であるのだといいます。リーダーのつもりでもよいし、先頭に立つ方としてもよいでしょう。体中に指令を発するブレインとして、そこにいてくださるように捉えてもよいかと思います。
 
◆罪に鈍感になっている
 
教会は「キリストの体」(1:24)だともいいます。キリストの姿をこの世で表すもの、キリストがここにいることを示すもの、そんなふうに捉えればよいでしょうか。イエスを信じる人々が集うところには、愛があり、希望がある、そんな様子を世の誰にも感じさせることができたらいいのに、と思います。
 
しかし、それがだんだん組織化されていくことは、歴史の中で避けることができませんでした。キリストがブレインであったはずが、それを代行する人間のリーダーが上に立つことにより、そのリーダーの言葉が神の言葉として絶対的な権威を帯びていくことにもなりました。末端の人々は、このリーダーに逆らうことはできません。妙なことをしたと目に映ったとしても、何か訳があるのだろうと遠くから見つめ、また忖度を働かせて気を使うようなことにもなったでしょう。確かな知識や見識があったとしても、そうそう批判をすることなどできません。
 
一般企業でも、組織の上部が少々怪しいことをしているなどという噂を聞いても、噂だけではとやかく批判できるものではありません。自分の給料がかかっています。自分の家族の命がかかっています。正義感からやったとしても、末端の社員の方が無知である故にそう考えた、ということが頻繁にありそうです。社内批判を挙げやすくする配慮が近年少し芽生えてきましたが、大きな組織ではまずできないでしょう。偶に、社内から問題を指摘したという報道が、英雄のように伝えられることがありますが、確かにそれは稀な英雄でありましょう。
 
芸能プロダクションに属している人も、噂程度で、上に立つ人の非道を責めるようなことが、通常できるわけがありません。世には、社内にいて知っていたのに批判しないとはけしからん、と勝手な正義感を振りかざす者もいるようですが、自分がその立場にいたらどれほどのことができるか、考えてみると決して簡単ではないことが想像できると思います。
 
中古車販売・買取会社がよからぬことをしたと話題になっています。多くの社員は、会社の命令に従っただけでしょう。もちろん、こんなことをしてはいけない、という葛藤もあったかと思います。しかし、「悪の凡庸さ」という言葉を知る人は、人間は善悪の判断を失って、ひたすら義務を遂行していくものなのだ、ということを改めて感じることでしょう。仲間内で業務に徹していくことだけが、働くということであり、むしろ会社のためによく頑張った、と自分を評価しさえするのです。犯罪であったかどうかは別として、あなたも、何かそういう経験はありませんか。よく考えてみてください。
 
作家の三浦綾子さんは、昨年生誕百年を迎えた人ですが、罪という問題と厳しく向き合った人でもありました。自身の過去を厳しく見るだけではなく、紙縒り1本でも、他人から奪うことに罪悪感を知るような、鋭敏な感覚の持ち主でした。神の前にそのくらい、感覚が磨かれていたのです。私たちは、そこまで「馬鹿正直」でしょうか。よく考えてみてください。
 
キリスト教会も、例外ではありません。ぬるま湯に浸かっているのではないか、いま一度襟を正してみたいと思うのです。その具体例については、とやかく申しません。神からそれを受ければよいのです。「これくらいあたりまえ」「これは仕方がない」「みんなやってるんだから」「こうしないとやっていられないですから」「神さま、見てませんよね」「どうぞいまからすることをお赦しください」――そんな言葉や心、ばらまいていませんでしたか。
 
◆キリストにつながって
 
教会で、「罪」に関する説教が激減していると言われています。それどころか、「罪」という言葉さえ殆ど聞かれない教会もあるのだとか。また、一応口では「罪」という言葉を発しながら、何の切実さもない決まり文句としてだけ用い、語る者すら何の危機感もなく、あるいは語る者すらその意味を本当には知らず、意味の分からない合言葉のように唱えているだけ、ということもあるだろうと思います。「罪を知らない」教会は、自分が何をしているか分からないのです。
 
教会は「キリストの体」と呼ばれました。イエスは、信じる弟子たちが「ぶどうの木の枝」であると仰いました。もちろん「ぶどうの木」とは、キリストのことです。信じる者は、キリストという幹につながっているから、枯れません。実を結びます。
 
このとき、枝と枝も互いにつながっていることになります。それも大事なことです。信徒と信徒とが、愛の中につながっているということは、どれほど強調しても終わることがありません。しかし、幹から切り離された枝と枝が互いに結びついても、そこに命はありません。まずキリストにつながっていること、だから枝々に命が行き渡り、互いにつながりつつ実を結ぶということが起こるわけです。本当につながっているならば、他の枝を侵害してはなりません。植物の葉は、互いを邪魔しないように、より光合成ができるように、互い違いに位置して、皆が太陽の光を受けることができるように開いています。そこに、愛を見るような思いさえします。
 
24:今私は、あなたがたのために喜んで苦しみを受けており、キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています。
 
なんだか不思議な言葉です。「キリストの苦難の欠けたところ」とは、一体何でしょう。キリストの受けた傷と痛みは、全人類を救うものではなかったのでしょうか。難解な箇所です。従って、このことにはいろいろ解釈があるそうです。こんなものはとてもパウロの思想からは出てこない、としてコロサイ書を斬り捨てる人もいます。尤もなことだと思います。
 
私も思うところがありますが、とてもまともな学説に値するものではありません。そして、これはこうである、と一定の説明をしてしまうのは、私の望むところではありません。ただ、多くの人が言うように、キリストの十字架の苦しみがまだ足りない、というようなことでは到底ないだろう、とは思います。
 
25:私は、自分に与えられた神の計画に従って、教会に仕える者となりました。あなたがたに神の言葉を余すところなく伝えるためです。
 
こう続いているのです。これからわたしは神の言葉を人々に伝える、という務めが与えられている使命を感じています。そこにもまた苦しみが待っていることでしょう。しかし、その前に、「教会に仕える者となりました」というフレーズが、明るく輝いています。
 
教会が、私に力をくれる。私を生かしてくれる。キリストにつながる仲間たちが、支えてくれる。その頼もしさを喜んでいるように感じられてなりません。信頼のおける人々との交わりがあり、なによりそこにはキリストがいる。
 
そう、キリストがいてこその教会なのです。キリストに誰しもがつながっている、という人々の集まりが、教会なのです。枝だけがつながるのではありません。キリストという幹につながっているのです。ただの仲良し倶楽部ではありません。一人ひとりがキリストとつながっているところです。キリストが教会を愛したのは、その建物などではありません。あなたを愛したのです。あなたは、そんなキリストと確かに出会いましたか。
 
そうであれば、私たちは今日、祝いましょう。主の祭りを致しましょう。週に一度、キリストの復活を記念する機会が、共に集まる場として設けられました。これは「聖なる集会」です。やがてくる永遠の祝祭を待ち望んで、主が共にいてくださることを、大いに喜びましょう。それこそが、「教会」に違いないのです。



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