インフルエンサー注意報

2023年9月28日

スカッと答える人が偉く見えることがある。
 
多くの人が、何か言いたいのだけれど、うまく言うことができない。そこで、誰かがスパッと言ってくれると、そうだそうだ、と支持するようになるわけだ。
 
あるいは、実は事態がよく分からない中で、バシッと発言している人がいたら、その自信ぶりを信頼して、この人ならきっと正しいことを言っているのだろう、と思ってしまうのかもしれない。そうして、思い切り意見を叩く人はかつては「毒舌」とも呼ばれたが、いまや「インフルエンサー」という冠が付せられる。
 
しかし、そもそも世の問題というものには、しばしば答えがない。少なくとも、分からない。だから、言い切ってしまうほどの正解というものは、案外少ないものだ。特に社会現象や人の心に関わることについては、数学のような結論が待っているわけではない。それを、何かズバッと言う人がいたら、この人は全能者ではないか、というふうに感じてしまうというのは、分からないでもない。だが、やはりそれは危険なことである。
 
独裁者は、そこを利用するのに長けていた。どうすれば人心を操ることができるか、知っていた。もちろん、その矛盾や危険性を覚る人もいる。が、それを押さえこむために、多くの人を自分の味方につけ、信用させる術を用いることができたのだ。
 
一種の「洗脳」であるが、洗脳された方は、自分が洗脳されているなどとは努々考えない。気がつかない。そこが巧妙なのである。
 
私もその一人であるのかもしれない。迂闊にも嘘を信じてしまうということがある。逆にまた、疑いすぎてひとを傷つけるということもある。何事もバランスが難しい。
 
「答えがない問い」というものが存在すること、またそれが重要であること、それに少しでも気づくことが賢明である。教育では実はそれができていないようにも見える。何事にも必ず答えがある、という信仰を育むばかりである。
 
哲学するというのは、答えがない問いを生むということでもある。インフルエンサーなるものから、必ず距離をとるものである。権力に参与するにせよ、反権力を叫ぶにしろ、これはこうだ、という声に全身全霊で同調する人が多数であると、世の中の「正義」は一気に動いてゆく。少なくともその可能性を秘めている。そのことを指摘するだけでも、哲学には意義がある。
 
後から振り返れば、どうしてあんな声に自分が無批判に従っていたのか、それが懐かしい思い出になるくらいならば、まだよい。取り返しのつかない事態を自分がつくってしまったという後悔になることを、真摯に考えておくことが望ましい。
 
『福音と世界』という雑誌は、キリスト教を母体としているが、社会問題を広く深く論ずる文章を毎回集めている。新しい10月号では、「飢餓」を主題としている。詳しくご紹介はしないが、それの真の首謀者であり実行犯は、消費者の一人ひとり、つまり私であり、あなたである、と指摘するものがあった。薄々感じていたことではあったが、ズバリ指摘されると、胸に刺さった。
 
もちろん、そのズバリということを丸々信用することには警戒しなければならないが、自らへの真摯な問いかけは、単純な提言とは異なる次元で、受け止めねばならないと感ずる。信仰しているから何でも知っているとか、自分は正しいとか、そのように思いなしていること自体が、救いようのない最悪の罪であるのだから。



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