特に中高生へ福音をもたらすために

2023年9月26日

教会学校と呼ばれるプログラムのことだ。かつてずいぶん長く携わってきたが、ここのところご無沙汰している。教会の少子化には歯止めがかからない。また、コロナ禍で壊滅的になったところもあるだろう。
 
ただの思いつきであるが、記してみる。特に中高生のためのクラスであるが、教案誌通りに聖書箇所を開いてそれを説明する、ということをおやめになっては如何だろうか。
 
私も、教会学校に子どもたちが溢れていた時代は知らない。小さな教会だったが、多ければ10人近くの小学生たちが来たこともあった。中高生は、すでに厳しかった。部活が始まると、なかなかその時間帯を継続して教会のために使うというのが難しくなるのだ。ただ、先輩のアドバイスとして、中高生は、相談に乗ることが大切だ、と聞いたことがある。
 
自意識が芽生えた後、自分ひとりで問題に立ち向かわなければならなくなる。しかも、大人でもなく、子どもでもない。妙なところで自己責任を問われつつも、自分ですっかり責任が取れるほどの立場でもない。人間関係や学校、部活のことなど、悩みが突然芽生えることになる。そのとき必要なことは、ただああだこうだと教え込まれるのではなく、自分で考えるためのきっかけを与えられることだ。つまりは、自分の中に生じたことを、信頼できる大人に吐露できるとよいかもしれないのである。
 
教会生活をする青年ないし大人は、その兄貴姉貴として、恰好の位置にいる。しかも、バックボーンとして聖書がある。問われた悩みに対して、兄貴姉貴として応えるほかに、聖書からはどう聞き取れるか、共に耳を澄ますということがあれば、よい時間になるのではないだろうか。
 
そのとき、教師サイドとしては、自分を誇るようなことをせず、また逆に卑下することもせず、共に神の前に悩める人間の一人であるとして、ただ少しばかり人生を長く歩み、同じような悩みを過ごしてきた者として、声をかけていくことができたらよいのではないか。
 
問題は、その教師が、適切に聖書を開くことができ、そうした姿勢を保つことができるか、というところにあるだろうか。聖書にそれなりに通じていないと、よい対応ができないであろう。教師側の力量が問われるのである。
 
聖書からよいアドバイスを与えられるのは、ただ闇雲に宝探しをするのではない、ということである。いつもぴたっと良い答えがもたらされるわけではないだろう。しかし、私たちは毎日の食事のように、それに触れていきたい。目立ったごちそうでなくていい。特別なグルメでなくて構わない。日々黙々と食べていく、それがエネルギーとなり、体を成長させもする。見えないところで、心身が変えられてゆく。
 
ただ教会の都合で選ばれた聖書箇所を開き、それを説明する。それに関することを考えてみる。それが無意味だとは少しも思わないが、生徒たちの心にぴたっと寄り添う箇所が寄り添うようにもたらされることを期待することは、なかなかできないだろう。生徒たちの方から、リクエストがあっていい。こんなことについて共に考えたい。それを受けて、教師側ではそれに見合う学びを予めする。聖書から聞く。
 
それだけの力量を、教会学校教師に求めるのは酷だろうか。伝道者がいれば任せてもよいかもしれない。なんなら、牧師でもよい。大人たちの魂の世話で、牧師はてんてこ舞いであるだろう。しかし、本当に中高生たちの心の結びつく機会に、手を貸せないのであろうか。彼らにとって、行事のときだけ挨拶をする「校長先生」であってよいのかどうか、問われてもよいのではないだろうか。
 
インターネットで、いつでも門戸を開いているとよい。そうした結びつきは、いまの時代、できないことはない。ツールはそこにある。軽率に使うとトラブルの素ではあるかもしれないが、よい知恵があればいいと願う。ちょっとした相談から、思わぬ恵みの雨が注がれることだって、大いに期待できるのではないか。
 
かつては、大学生の力が教会には大きかった。金はないが時間と力はあるという立場で、大学生は教会のために動くことができた。近隣に大学のない教会ならともかく、周囲に多々あるのに、大学生がひとりも来ない教会というのは、非力である。ミッション系大学の課題のハンコ欲しさだけに年に一度だけ来る、というだけでは、大学生もただのお客さんである。その大学生の信徒は、高校生までの時に神と出会う経験をしているものと思われる。だとすれば、中高生の心を聖書とつなぐ営みは、教会にとっても非常に大きな意味をもつはずだ。
 
中高生のために重荷を負う方もいる。その提言を集めた本もある。私はまだ直接見たことがないから、いま非常識なことを言っているかもしれない。私の気づかない、いまの時代の中高生の信仰事情というものがあるような気もする。しかも、世間は流行語のように「宗教2世」という言葉が飛び交い、誤解されたままに使われている様子もある。どうあっても、ティーンズと教会の問題は、逆風の中である。ミッション系の学校も、そのあり方が問われるほどに、経営の問題を抱えている。学校に頼ることも、以前のようにはできないのではないか。いつ芽生えるか分からない種蒔きとしての意義を私は願っているが、教会はそれに頼ることのできない情況にあると思うのだ。
 
現場から離れている私が、偉そうにとやかく言うのは間違っている。だが間違っていても、問うことは許されると思って、問うている。私のために、またキリストの教会のために。



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