【メッセージ】聖霊を求めよう

2023年9月24日

(ルカ11:5-13, ハガイ2:1-9)

まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ11:13)
 
◆聖霊なるもの
 
書店へ行きますか。以前ほど行かなくなった、という人もいらっしゃるでしょう。私も近くの書店が次々となくなり、多くの本を送り届けてもらうようになりました。大きな書店は都市部にかたまっており、なかなか行けませんし、駅近くの書店には、目指すような本は置かれていないのです。
 
ショッピングモールの中に、比較的大きな書店が入っています。さて、キリスト教関係は、というと、以前天神にあったほうのジュンク堂書店は、キリスト教関係の棚がなかなか充実していました。が、縮小再開したいまは厳しい情況です。全店がその方面の棚であるキリスト教専門の書店も、長く博多駅付近にあったものが、近年週3日営業となった挙句、2023年で閉店することが決まっています。そうそう、キリスト教書店といえば、京都では、ヨルダン社の方には特に個人的にお世話になりました。その件を話し始めると長くなりますので、いまはやめておきます。
 
多少大きな店でも、キリスト教と見出しをとる棚は、それほど大きくありません。それに対して、「精神世界」とか「スピリチュアル」とか書かれてある棚の大きさは、目を見張るほどです。それは「心理学」とはまた違います。学問性はありません。いわば思いつきで心にツッコミを与え、信じさせようとするもので、宗教性の強いものです。
 
いったい、科学の時代などと、誰が勘違いをしているのでしょう。占いや霊媒の如きものは、いまなお人々の魂を魅了し続けています。そして「霊」というものが、安易に信じられていることを知ります。「コックリさん」のようなものは昔も流行っていました。「幽霊」や「霊現象」に、小さい頃の私が惹かれていたことは、以前お話をしたことがあります。そうした素朴な、いわば「ベタ」な「霊」への好奇心というものは影を潜めましたが、そんなものは信じないよ、というポーズをとりながら、その実「霊」に操られているような状態にあるのだとすれば、現代はかなり厄介な事態であるのかもしれません。
 
聖書もさかんに「霊」について触れます。旧約聖書は創世記の冒頭から、それは当たり前のように登場します。
 
1:初めに神は天と地を創造された。
2:地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 
「神の霊」という言葉は、旧約聖書にも新約聖書にも、同じくらいの数が登場します。しかし、それとほぼ同じようなものを指していると思われる、別の言葉は、新約聖書にしかありません。それは「聖霊」という言葉です。くれぐれも、妖精のような「精霊」ではありません。
 
「聖霊」とはギリシア語では「聖なる・霊」いう二語から成る言葉です。ただ「霊」とだけ書かれてあるところでも、実際上「聖霊」を指しているように読めることも多く、ご丁寧なことに、新共同訳聖書では、「聖霊」と思しき「霊」の語は"霊"と訳しており、少々押しつけがましい印象を与えていました。
 
「聖霊」という訳語は、私のカウントでは新約聖書には94回使われています。その半分以上を、ルカによる福音書と使徒言行録が占めています。この二つの書は、多くの研究者が一致して、同一人物の手による著作だろうと言われていますから、要するにこの筆者が非常に好きだったというようにも考えられます。それに比べて、パウロは1割に留まります。パウロは、懐疑的な学者が認めるその真筆とされるものだけでも、新約聖書の2割くらいはありますから、「聖霊」という言葉を好んで使ったわけではないことが分かります。
 
そもそも「聖書」にもその「聖」の文字を私たちは掲げます。「聖」という文字は「きよい」と読ませることもできます。神聖なものを私たちはそこに感じ取ります。「聖なるもの」という感じ方を「ヌミノーゼ」と称して、神学者オットーが重視したことがよく知られていますが、私たちは何かしら「聖なるもの」に対して畏敬を払うのが普通です。
 
ただ、聖書の中で出てくる「聖」の意味の言葉は、「きよい」「きれい」という感覚よりも、まずは「分離された」「特別な」のような響きを含みもつものとされたようです。そのことは、また改めてどこかで深く考えることにしましょう。
 
◆聖さ
 
「聖」のそのような考え方は、古今東西、どこにでもあったことでしょう。日本にも、言葉はともかく、「きよい」考えは大切にされていました。人が触れてはならないタブーの領域があると同時に、たとえば武士が見苦しい逃げ方をしないというような、「潔い」ことをよしとする考え方が、それに近いように思われます。新渡戸稲造は『武士道』を英語で世界に発信し、日本人の美徳を世界に知らせました。潔い武士の態度は、世界を驚かせたことだろうと思います。けれども、新渡戸稲造自身がキリスト者でありましたから、もしかするとキリスト教の「聖」という考え方を、隠し持っていたのではないか、とも考えられます。
 
「聖」とは「きよい」ことだ、と言う方向で捉え始めると、清潔であることが強調されるようにもなります。事実、ヨーロッパでは、キリスト教の中に「禁欲的なもの」が中心にある、というように走って考える傾向が歴史上ありました。もちろん、いまもなおそれを求めることは可能ですし、多々あろうかと思います。具合の悪いことに、そういう人間心理を利用して、つまり聖書を利用して、巧みに人心を操ろうとした宗教団体もあるわけです。社会問題にもなりましたが、被害者がなんとか救済されてほしいと願います。皮肉なことに、その「きよさ」中心の思想が、恰も日本の右派の思想に合致すると見間違えたのか、与党政治家が長いことその宗教団体と手を組んでいたことがありました。ようやくそれと手を切る、と現政権が声を出しましたが、その宗教団体の思想が、与党の思惑と正反対で、極めて「反日」的であるというのは、ずいぶん皮肉なことのようにも思えます。
 
キリスト教の「聖書」は、元来「聖」という形容詞を付けずして言及される言葉です。新約聖書でそれは「書かれたもの」というような言葉で表現されています。しかし、結局後の世がそれを「聖書」と呼んだこと自体は、悪いことではないと思います。しかし、「酒も煙草も呑まぬ、屁も放らぬ」というような「聖人」呼ばわりはどうなのか、疑問に思います。「敬虔なクリスチャン」というステレオタイプの常套句は、どうにかならないか、とも思います。それに対して「そんなことはありませんよ」といちいち説明するのも面倒だし、その謙遜の姿勢自体が、「謙遜高慢」を呼ぶようで、あまり面白いことのようには感じません。いっそ「不敬虔なクリスチャン」とでも言われたほうがスッキリする、という思いの方はいませんか。その方が正しいのかもしれません。いまや、もっともっときよさを求める精神は、世の中にいくらでもあるように思われて仕方がありません。
 
それに、「聖書」を実際繙いてみれば、どこに「きよさ」があるのか、と目を疑いたくなります。「きよい」のは神やイエスのみで、そこに描かれた人間の姿は、罪と汚れと、腹黒い考えばかりで、人間の汚さだけが綴られている書でしかない、というように思えてなりません。
 
◆聖霊をくださる
 
ルカは、神に信仰しつつ求めるならば、聖霊を与える、というイエスの言葉を記録しています。ルカ11章のその場面は、こんな譬え話から始まります。
 
5:また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
6:友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』
7:すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』
8:しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。
 
まだここは導入です。ひとつの場面設定がなされます。夜に友が訪ねてきた。その友のためにパンを提供したい。中東では客人は誠意を以てもてなすのが常識だという。それで近くのまた別の友の家を訪ねる。つまりここでは、友だということで、玉突き状にその友を頼ることになる。しかし、パンを所望された最後の人物は、もう夜中だし子どもも寝ている、頼まれても無理だ、と答える。イエスは、その次のシーンは描きません。ただ、「執拗に頼めば」パンをくれるに違いない、と話す。そのように、神に対しても熱心に頼むのだ――と、言いたいことは十分分かります。
 
9:そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
10:誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
11:あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12:また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
13:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」
 
熱心に頼み求めるのだ。すると神は応えてくださる。これが骨子です。しかし、この最初のところで、「おや」と思った人もいるでしょう。どこかで聞いたような――でもあれは、ルカによる福音書だったっけ?
 
そうです。これはマタイによる福音書にある、有名な箇所です。マタイの7章を参考に引用しておきましょう。
 
7:「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
8:誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
9:あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。
10:魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
11:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。
12:だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
 
求めれば、人の親ですら良い物を与える。だから神について言えば、「まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださ」と言います。私たちにとっては、分かりやすい教えだとも言えます。そうだ、なんでも求めるんだ。私などは、受験生にこの言葉を贈ったこともあります。さあ、求めるんだ、と。いやはや、お門違いではありました。でも、なんだかポジティブにさせる力をもった言葉だと思います。
 
けれどもルカによる福音書では、違いました。求めれば、人の親ですら良い物を与える。だから神について言えば、「まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」としました。くださるのは「聖霊」になっています。これでは、受験生には贈れません。「求めよ。そうすれば聖霊をくださる」では、励ますことができないのです。
 
しかしルカ当時のキリストの弟子たちにとっては、それが切実だったということなのでしょう。ルカによる福音書の筆者をルカと呼ぶことにすると、同じルカが、続編として「使徒言行録」を書いたであろうことは、現代では常識化されています。そして「聖霊」という語の現れる頻度が、このルカ伝と使徒言行録とが抜群に多いという共通点もありました。「使徒言行録」は以前口語訳までは「使徒行伝」と訳されていましたが、これについて、いや「使徒」ではなくて、これは「聖霊」が弟子たちをどう動かしたかを描いているのだから、「聖霊行伝」と呼ぶに相応しい、とよく京都の牧師は講壇で語っていました。
 
この聖霊は、神のひとつの現れだとされています。「三位一体」という言葉は、世間でも平気でよく使われますが、キリスト教の教義で、神・イエス・聖霊の三つの姿をとりつつも、それは同じひとつの方なのだ、という理解を表す言葉です。聖霊も神のひとつのあり方だとします。そのことをいま深める暇はありませんが、聖霊という形で、神がイニシアチブをとって、弟子たちを導いていったことが、ここからよく分かると思うのです。
 
◆霊なるもの
 
「聖霊」の「聖」については、先に少し取り上げて思いを寄せました。「きよい」という意味を強調しました。他方、今度は「霊」という言葉に注目することにします。「霊」は、「聖」以上に、扱いにくい概念であるように思われます。どうしても、他のイメージがつきまとい、私たちの先入観を作ってしまっているからです。
 
最初に申し上げました「神の霊」にしても、どうでしたか。すんなり受け容れる人もいれば、なんじゃそりゃ、とお思いの方もいらしたのではないでしょうか。
 
今の世界なら、科学で説明できないことがあると、「霊」のせいにすることがあります。「心霊現象」という言葉は、いまは流行りませんが、一時大きなブームとなっていました。現在はそれが例えば「パワースポット」という形で受け継がれていると私は思うのですが、夢中になっている人々は、どう思うでしょうか。
 
そもそも近代科学が成立したのが、まだ何百年と言えるかどうかというレベルです。医学に関しては、百年前でさえ、病原菌について殆ど何も人類は知らなかったようなものです。聖書の書かれたような時代には、科学などという考え方そのものがありません。もちろんそれは、知恵が劣っていた、という意味ではありません。考え方の枠組みが違ったのです。そういう頃には、科学で説明できないのは霊のせいだ、などという発想そのものがありませんでした。この世界の現象の背後に「霊」という原理があると見るのが当然だったはずです。
 
興味深いことに、聖書には「幽霊」と訳されているところがあります。マタイとマルコとにありますが、どちらも場面としては同じなので、今回はマタイによる福音書の14章からお読みします。
 
26:弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた。
 
イエスが湖の上を歩く奇蹟を表している場面ですが、当時の人々にとっても「幽霊」は脅威の対象だったようです。病気や狂気のような症状をひきおこす背後に目に見えない悪霊がある、というのはわりと平然というのに、目に見える形で師匠が現れると、幽霊だと怯えるのが、なんだか可笑しいような気もします。
 
こうした現象は、いまでも人々の好奇心の対象となります。シャーロック・ホームズを生んだコナン・ドイルが、かなり心霊現象に入れ込んでいたことは有名です。妖精の写真を事実と信じ込んでいたのです。いまからほんの百年前のことです。ネス湖のネッシーだの、空飛ぶ円盤だの、また宇宙人の捕獲だの、様々な写真が世間を賑わせてきたことについては、最近中村圭志氏が『亜宗教』という本でかなり辛辣に、それを信じる人間の宗教的心理を暴露しています。また、安斎育郎氏は、平和を唱えると共に、以前から疑似科学やオカルト現象などについて、科学者の眼差しからそのメカニズムを明確に示し、信じることの危険性を訴えていました。
 
人は、何らかの「説明」をして、自分の知性を安心させたいのです。そのため、見えない事柄について、何か納得のいくような論理を組み立てようと努めます。
 
パウロに注目すると、この世で苦難があることについて、気を落とさずに、新たな未来を信じることができると言いたいために、「見えないもの」について触れたことがあります。
 
私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。(コリント二4:18)
 
もしかすると、科学という検証を経るのでなければ、電磁気現象を「霊」の仕業だと騙すことも可能だったことでしょう。狐憑きは、日本ではカミの仕業でもありましたし、憑依霊は、幕末から明治期の新宗教では常識でした。精神科医の中井久夫氏は、生まれ故郷にあったその話を、精神疾患のひとつとして分析しています。
 
◆ハガイの預言
 
聖書に戻りますと、この「霊」について多くの興味深い記事があります。預言者に神が声をかけたというのも、そういう角度から捉えることができるかもしれません。しかしなんといっても印象的なのは、イスラエルの初代王のサウルです。サウルは、もともと精神疾患があるのではないか、という気配が漂う人物でしたが、サムエル記上10章には次のような記事があります。
 
9:サウルがサムエルと別れて帰途に着いたとき、神はサウルの心を別人のようにされた。こうしてこれらのしるしはすべてその日に起こった。
10:彼らがギブアにやって来ると、預言者の一団に出会った。すると神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言者のようになった。
11:以前からサウルを知っていた者は皆、彼が預言者たちと一緒になって預言しているのを見て、言い合った。「キシュの息子は一体どうしたのだ。サウルもこの預言者たちの仲間なのか。」
12:そこにいた一人が答えた。「この人たちの父は誰なのか。」こうして、「サウルもこの預言者たちの仲間なのか」はことわざになった。
 
もう一度、同じサムエル記上の19章の終わりで、このことわざが登場します。「神の霊」が激しく降り、「預言者のようになった」というのです。よほど激しい体験があったのでしょう。これだけの表現から、何が起こったのかを言い当てることは不可能だと思いますが、「神はサウルの心を別人のようにされた」ということがこの出来事の総括のようですから、キリストに出会って救われた私たちも、預言者たちの仲間なのかもしれません。そう、確かに「神の霊」が降ったのですから。
 
ところでこの礼拝では、ハガイ書もお開きしました。預言者ハガイについては、今月初めにも触れました。あのときには第1章を取り上げましたが、「主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い起こされたので、彼らは行って、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった」(14)に目を向けたのでした。
 
ハガイは、バビロン捕囚のときに、エルサレムに残された人物のようです。捕囚事件の後に生まれた可能性もありますが、ともかく神殿の再建を人々に呼びかけたようです。敵の来襲により破壊され荒れ果てた神殿は、人々の心の支えが崩れ落ちた出来事でした。2016年の熊本地震で、熊本城の城壁の一部が崩れたことで、熊本の人々の心は被害以上に傷つき、復興のシンボルとしてまた築こうと考えたことと、少し重なるような気がします。沖縄の首里城の焼失がどれほど人々を落胆させたか、それもつながるでしょうか。それらは単なる象徴と呼ばれるだけのものでは済みませんでした。特にエルサレム神殿は、神を礼拝する場所だったのですから、なおさらです。
 
ハガイ書をいま長くお読みすることは控えます。民よ強くあれ、と励ます中で、逞しい言葉の一節だけをいま繰り返します。
 
5:あなたがたがエジプトを出たときに/私があなたがたと結んだ契約によって/私の霊はあなたがたの中にとどまっている。/恐れてはならない。
 
「私の霊」とは、もちろん「神の霊」のことです。これは「主の仰せ」だからです。「神の霊」があなたがたの中にいるではないか。それはかつての契約にあるではないか。神は旧い契約をも、蔑ろにはしないのだ。神があなたがたと共にいる。だから恐れるな。
 
これは、とてもハガイの思いつきではないとすべきでしょう。これから始めるべき神殿再建は、人間の業ではないとすべきでしょう。神の霊がそれを促すのです。神の霊が導くのです。ハガイの中にも、それは働いています。だからこその預言書です。建築に携わる人すべてにも、働いていることでしょう。
 
ハガイの預言がもしも、メシア即ちキリストを期待していたとしたら、ここに再建しようとするエルサレム神殿は、後のイエス・キリストの出現のための、大切な場所になります。そこに、一時的ではない、永遠の「平和を与える」ことになることを見ていたことになるでしょう。
 
◆聖霊は人の中へ
 
「神の霊」は、「聖霊」という形で、新約聖書を舞台に、新たな展開を見せたように思えます。「きよい」という言葉が、必ずしも人間のイメージ通りではなかったかもしれません。確かに神は「きよい」お方です。その「聖霊」を、求めれば与えるというのは、実にありがたいことだと思います。そのお方は、私たちの心に来てくださるのであり、私たちに神の思いを伝えます。神の言葉が分かるようにしてくださいますし、ずばり言うと、神と出会わせてくださいます。
 
聖霊は、人間と心通う道のようなものだとも言えます。語り合えるし、示唆してくれるし、生き生きと交わることができる、なにか「人格的なもの」であると言ってもよいかと思います。
 
もちろん、神の思いをすべて知るということは、私たちにはありえないでしょう。しかし、同様にそもそも私たちは、他人の心を分かることはできません。他人の心がすべて分かるということはありえないのです。けれども、目の前のその人の表情や言葉遣いのひとつから、何かを感じることができます。遠くの人の置かれた環境を知って、不十分ではあるにしても、何かを思いやることができます。
 
私たちは、イエス・キリストと交わることができます。聖書を読み、イエスの言葉を聞きます。それから、祈ります。いったい、神に祈っているのか、キリストに対して祈っているのか、聖霊によって祈っているのか、はっきりと分離はできません。むしろそれらが一緒くたになった中に、私自身が置かれていることを知るとき、祈っているという実感が伴うような気もします。祈りは、神に願い事をするのではなくて、神と交わることであるはずです。
 
聖霊は、そのとき私の中に来てくださっているのでしょう。共に祈る二三人の中にも来るでしょう。多くの教会の仲間にも来ることがあるでしょう。ひとつの教会に留まらず、幾つもの教会、あるいはもしかすると教会の外でこの世で政をいとなむ人々の心にも、来るのだ、とも言えるでしょう。
 
だからハガイは、神殿再建を心するすべての人々の間に、神の霊が働いている、と言ったと思うのです。聖霊は、人間に知恵を与え、聞く耳をもつ者に、神からのメッセージを授けるのです。聖霊は、歴史を陰で支え、導いているのです。
 
◆聖霊を求めよう
 
こうした聖霊をどう経験するか。「聖霊体験」とも言います。ドラマチックに体験する人もいます。キリスト教の派の中には、その激しい体験を求めるグループもあります。自分にそんなことがあっただろうか、と気づかないようなタイプの人もいます。知らず識らずのうちに導かれている、ということで、あのときそうだったのかな、と思い起こす人もいます。
 
聖霊体験は、人それぞれに異なるものです。人格や個性が違うように、神も、一人ひとりにそれぞれの形で臨むのでしょう。他人の心に人間があつかましく踏み込んで、あんたはこうだ、と決めつけることができないように、聖霊を受けるのはこのようにしてなのだ、と型に決めて強調するグループがあるとすれば、人心を操ろうとするカルト集団のようなものでしょう。そうした手法を幹部が教えるところは、どうぞ見限って戴きたいものです。
 
私たちは、神の言葉に耳を傾けましょう。聞く耳をもって聞き、その言葉に従いましょう。
 
求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
叩きなさい。そうすれば、開かれる
 
神は、求めるならば、聖霊を必ずくださる、とイエスが言ったではありませんか。その聖霊を受けて、弟子たちはその後、あれほどに変えられたではありませんか。そして教会が生まれたのです。私たちの「教会」とは、宗教法人化された組織のことをいうのではありません。イエスの名によって心通う人々が、それぞれに神と出会った証しを以て集い、あるいは対話し、共に神からの言葉を身に受けて支え合うのであれば、そこにイエスはいるのです。
 
いまいちど心を静めましょう。聖霊は、キリストとそのすべての恵みの中に、私を引き入れてくださいます。私を慰め、永遠の私と共にいてくださいます。その聖霊を、求めましょう。すでに神は、イエス・キリストを与えてくださいました。聖霊をお寄越しにならないはずがありません。神は、ご自身を、惜しげもなく私たちに与えてくださる方なのです。聖書が、そう告げているのです。



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