思い込みは誰にでもある

2023年9月22日

長男が小学生のときのことだった。作文を書いた。今度はたこ焼きの話ではない。教会学校でクリスマスの話を聞いたことだった。マリアの懐妊に先立って、親類のエリサベトが洗礼者ヨハネを授かる。
 
若い女の先生だったが、「エリサベト」のところを、朱で「エリザベス」と直していた。いや、彼は「エリサベツ」と、その時の聖書に従って書いていたような気もする。
 
先生は知らないんだね、と私は息子に説明し、そのことについてとやかく言うこともせず、君が間違っていないということだけは確認しておいた。
 
エリサベトでいいのか。ちょっと調べれば分かったかもしれないが、当時はインターネットの普及もいまほどではなかったから仕方がなかったかもしれない。しかし、思い込みとはそういうものである。私もまた、随所でそんなことをやらかしているのだろうし、怖いのは、自分でそれが思い込みだと知ることが、さしあたりないことである。外来語は、音の表記の問題でもあるし、なおさら難しい。
 
昔、年配の方が新聞の投書で、外国語の表記が間違っている、と怒りの文章を書いていた。その最後のほうで、「イスラエル」などという国はない、と吐き捨てている。話の流れからすると、英語読みのことばかり書いていたので、もしかすると英語読みの「イズラエル」が正しい、と思いこんでいたのかもしれない。それだったら「アーメン」も「エイメン」でなければならない、とこの方はお怒りになるのだろうか(尤もアメーンかアーメーンのほうが原文に近いだろうか、ギリシア語かヘブライ語か、ややこしい事情もある)。
 
村上陽一郎氏が、「気の置けない仲間」と書いたある人が「それは誤用だ」とクレームを受けた、という話を本で書いていた。いくら言葉が生き物であるからとはいえ、通常の意味を誤用だと突きつけられてはたまらない。クレームを寄越す前に、ちょっと国語辞典でも引けばよいのに、と嘆いていた。
 
知らないことは知らないでいい。全知なる人間などいない。私も、言葉などについての誤りを指摘されたら素直に謝り、ありがとうございましたの一言くらいは返すことにしている。その人が誤っていると思い、指摘しようと心が動いたら、ちょっとだけでも調べてみる習慣にはしている。その結果、自分の方が無知であったことを、何度思い知らされたことであろうか。
 
いまの時代は、検索ひとつで、調べるのに何秒もかからない。全く便利な時代になったものである。しかし、その検索のために、デマに引っかかるという可能性も生まれてきたから、また厄介である。
 
旧約聖書の「エステル」の説教の中で、わざわざクイズ形式で会衆に問うた上で、美容の「エステティック」は、この「エステル」から来ているのです、と言ってしまった人もいた。いくらエステルが美容を施されたと書いてあっても、さすがにこれには私も引いてしまった。その場で言うべきだったかもしれないが、礼拝後、あれはまずいでしょうから訂正してください、とその牧師に言った。嘘をばらまくと、嘘を信じる人が増殖しかねない。しかし、それが訂正されることは、ついになかった。説教に対する責任というものは、その人にとってその程度のものであったのだろうと判断せざるを得なかった。
 
気になって検索してみると、その間違いを記事にしている人が、確かに存在した。少ないが、複数である。それは引用によるものだったから、ソースは限られている。恐らくその記事を目にして、関連事項を調べてみることもなく、すっかり信用してしまい、礼拝説教でばら撒いてしまったという事情なのだろうと思う。
 
リテラシーという言葉が注目されて久しい。元来文章の読解力や記述力のような場面で使う概念だったのだろうが、この目まぐるしい情報社会において、情報を適切に活用するための能力として、注意が促されるようになった。
 
凡ゆる詐欺に対して大丈夫という人もいないだろう。情報を信用してよいのかどうか、いつもブレーキをかけなければならない時代になった。おとなに話しかけられても挨拶をしてはいけない、というのが昨今の子どもたちの常識となっている。雨に濡れて帰宅する子どもを車に乗せてやるなど、もってのほかである。世知辛い社会になったと嘆くこともできるが、まず自分自身のことから、点検する必要はありそうだ。
 
一番怖いのは、自分で自分を正義だと決めてしまうことだ。私たちの偶像崇拝は、実のところ、自分自身を神だと崇めていることであるような気がしてならない。



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