偏差値教育

2023年9月20日

「偏差値教育は悪い」と口にするのが、互いの仲間意識を形成する。そんなことが長らく続いている。もう市民権を得た決まり文句のようである。それはまるで「科学は悪い」と一刀両断にすることのようにも聞こえる。「偏差値」の使い方に気をつける側面があることは確かだ。だが、「偏差値」そのものを消し去ったらどうなるか。一時、それを否定して、学校の先生たちが窮地に陥ったことがあった。進路指導ができなくなったのである。
 
学習塾では、進路指導にも偏差値を使う。言うなれば、偏差値で授業クラスを決めている。授業はそれで効率化する。理解力や能力は、人により異なる。だがある程度それが揃っていると、授業の運営は確実にしやすくなる。だから公立学校の先生は大変だろうといつも敬服している。誰かを置き去りにしていくわけにはゆかない。だがそこに手を止めていると、すでに理解した生徒が退屈極まりない。すると、もっと能力を伸ばしたい生徒を伸ばしてやることができなくなる。どちらからも不満が出ないように授業をするというのは、もはや神業のようでもある。こういうことへ目を向けると、近年「ギフテッド」と呼ばれる特別な才能をもつ子どもたちも、甚だ苦しいだろうと思われる。ギフテッド教育も考え始められているが、規格外ということで排除されることがある、とも聞くからだ。
 
そもそも世間で何かを教授する教室は、初心者と中級者、上級者を別に扱うはずだ。学習について、初心者と上級者を同じ教室で同じ授業で営まねばならない、とするのは、どだい無理な話なのだ。
 
そうするといじめが……と心配する人もいる。差別をしてはならない、と教育論者になって口にする人もいる。現場をご存じないと、そうした理論に走るものらしい。塾では、いじめを許さない。それは営利団体であるから、問題を起こす子には辞めてもらうという切り札があるからできることかもしれないが、そうした事例はまずない。授業のレベルが異なるクラスの間で何か妙な空気が流れるということは、私の知る限り、存在しないと言ってよい。むしろ、友だちは友だちなのであって、どこのクラスの間でも、互いに行き来して楽しく語らっているということは、いくらも見られる。模試でクラス分けがあるから、今度は頑張るよなどと、励まし合っている姿のほうが普通である。
 
小さな塾でなければ、複数の中学校から生徒が集まっている。他の学校の子と友だちになる機会もあるし、情報交換もしているようだ。朝から晩まで顔を突き合わせているような関係ではないところでは、懸念されるようないじめは、基本的に起こりにくい。固定された社会ができにくいからだ。そして目的が、受験のようにはっきりしている。皆が共通の目的をもっているならば、その目標が異なっていても、いじめに展開するような事態は、起こりにくいであろう。
 
しかし水面下で、何か諍いやよろしくないことが起こることが、ないわけではない。そのときには、保護者から知らせがくる。塾にとっては、顧客である。どちらが悪いと一方的に責めるようなことは避けつつも、全力で火消しにかかる。芳しくない評判が立つと、経営に響く故、全力である。
 
偏差値により区別して指導する現場では、世間がドラマ的に時折懸念するような醜い心理が横行している様子はない、と言える。むしろ、偏差値を非難する政治家やマスコミのほうが、妙な目で見ているのではないか、と勘ぐりたくなる。そして、そのような非難をコメントする人々は、たいてい偏差値で優遇されてその地位に就いているのではないか、と思われることを考えると、一番学歴社会の恩恵を受けている者が「学歴なんて関係ない」と高笑いをしているのと同じくらい、不愉快に思う人が多いのではないだろうか。
 
みんなが同じであればよいのか。手をつないで徒競走で一緒にゴールする様子はさすがに揶揄されたが、いったい平等とは何であるのか、私たちはもっと考える必要があるだろう。なぜ競争は必要なのだろうか。競争で人間の価値を決めないからである。競争は社会のためにはあってよいし、その競争で人間を決めることはあってはならない。その競争によってすべてが決められるような社会をつくってきた現実は、確かにある。だからそちらをこそなんとか変えねばならないはずだ。私たちの心に基づくところを改める必要があるのではないか。
 
学歴だけで名誉や収入が異なるわけでもない。オーバードクターとかつて言われたが、それを改善しようとした制度もうまく回っていないようだ。学問が好きで、何十年もひもじい思いをし続けている人もいる。めちゃめちゃ賢いのであるが、社会はその能力を活かす道を用意できていない。高学歴で、夢をもち使命感をもって人類の福祉のためにと探究している人たちを、ちょいと資産を運用してじっとしていても大金が転がり込んでくるような生き方をしている者が、せせら笑っているような構造があるとすれば、人類の行く末は、さほど明るくはないだろう。
 
ちょっと正義感を満足させるような意見に、よくも知らない群衆が飛びつくことはよくあることだ。自分は常に正義の側にいたい。だから、誰かが悪と呼び始めた者を、一斉に悪だ悪だと責め立てる。もういい加減、そうしたことの繰り返しから、脱却したらどうだろうか。民衆が立ち上がったことは、歴史上意味があるが、こうしたことを歴史の中で、もう痛いほど経験してきたのではないだろうか。そうして、さらに狡い者が、それを利用して人々をうまく抱き込み、世界を狂わせてきた歴史も、私たちは知っているのではないだろうか。その過ちは、現在も進行している。自分は正義の一員だという前提からすべてを考えていたら、あなたもその片棒を確実に担いでいることになる。それとは意識していないままに。



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