理科と国語についての呟き

2023年9月16日

時代考証など徹底している点で、NHKのドラマは結構信頼がおける。もちろん完全であれと迫るつもりはないが、全国からチェックが入るので、かなり念入りにやっている努力は感じる。
 
だがそれでも、先般、引っかかってしまった。それは、月の形である。ようやく子どもが寝入って夜に夫婦で話をしているようなのだが、月の形からして、夜中の3時か4時くらいではないか、という月だった。夫婦で徹夜をしていたような情況ではなかったと思う。
 
小学生に、月の形を教えているので、私は月の形には、瞬間的にこのように反応する。NHKでもこうだから、民放のドラマでは日常茶飯事だ。どうしていつも月が満月でなければならないのかも不思議だが、高さの設定から時刻が類推できるので、引っかかることが時々ある。しかも、夏は月の軌道が低いので、空高々と満月が輝いていると、場面が冬だったのに、と不思議に思うこともある。
 
これは、私の職業病かもしれない。でも、理科を学んだ小学生は、同じように思うのではないかと思う。ファンタジーだから月だってどうでもいいのだ、というドラマなら、咎めるほうがおかしいかもしれないが、それでも、引っかかるものは引っかかる。
 
虹もそうだ。虹が空にかかると感動するシーンが生まれる。が、虹の傍に太陽が輝いてキラキラしていると、すっかり興ざめする。CGだと、ありえない風景でも簡単に作れるわけだが、ありえないものはありえないのだ。スタッフの誰かひとりくらい、その奇妙さに気づいてくれ、と言いたいのだが、無理なお願いだろうか。
 
理科の知識というよりは、自然を観察する眼差しは、ますます劣化しているように見受けられる。ニワトリの脚を4本描いた学校の先生がいたとかいうのは伝説かもしれないが、子どもたちが身近な草花や虫について、びっくりするほど知らないのも、もう慣れてしまった。慣れてはいけないとは思うけれども。
 
いつも言うが、ツユクサを知らないことで驚いていた時期も私にはあったが、いまは当然だという境地に達している。なにせ、レンゲソウを知る子が教室に一人いればいいほうなのだ。これは、子どもたちを責めているのではない。大人だ。大人が、子どもたちに教えないのである。しかも、その大人自身が、多分に知らないと思しきところが、また歯痒い。自然と触れあうことを体験していない世代が、親になっているのかもしれない。
 
体験がないと、言葉も通じない。確かに、差別語というのは、教育上なくなるのは良いことなのかもしれない。子どもたちは、互いに言葉で傷つけ合わないように、かなり緊張した会話によって学校生活を送っているらしい。アニメの言葉遣いも、友だち同士常に敬語になって久しい。しかし、言葉がなくなったから差別がなくなる、ということでもないであろう。むしろ、言葉に無知であることから、古い差別語も平気でいつか使うようになりかねない、とは思えないだろうか。差別精神を自覚する学習は、何らかの形で必要なのだ。
 
そうした差別問題を論じた、少し古い本が、もう全く読めなくなってしまう。否、差別問題だけではない。半世紀前の本ですら、子どもたちはもう読めないのではないか。況んや夏目漱石をや。それはもうすっかり古典文学に相当する。旧字体云々というレベルではない。日常語だと思われていた言葉も、もはや意味不明の外国語のようになっている。
 
古文の学習で、現代語と意味が異なる古語があるということは、大切なポイントである。紛らわしいし、勘違いしやすいので、よく学んでおかないと、引っかかるのだ。「ののしる」は、今と違って「おどろく」という意味ですよ、などというのが教える常道であったが、いまやその「ののしる」という言葉が何のことであるのか、子どもたちは分からない。だから新単語として、「ののしる」は「おどろく」だ、と素直に覚えるだけである。現代語と意味が異なる、という背景は、全く意味をなさなくなってしまっている。
 
体の部分で、私がよく尋ねるのが「うなじ」である。数学の「項」を教えるついでに、漢字の勉強ということで触れる。「うなじ」はどこかな、と尋ねるが、教室で一人か二人が知っている程度である。「こめかみ」や「すね」などはどうなのだろう。もはや「すねをかじる」ことが特別視されないほどになってしまえば、知らなくてもよいことなのだろうか。「弁慶の泣き所」など、もはや死語なのかもしれない。
 
とにかく、何にしても、「説明」が大変になった。説明に使う言葉は、相手が知っているという暗黙の前提であるわけだが、その言葉自体が別の説明を要するとなると、要するに全く説明したことになっていないのであって、子どもたちの顔色を窺いながら、その辺りのノウハウを日々会得している、というのが、教室での先生方のご苦労なのだろうと思う。
 
中学生も同様である。「いざ行かん」を例にとって「ん」つまり「む」が「意志」である実感を伝えようとしても、ほぼ無駄であった。「いざ行かん」が全く通じないのである。これでは、もはやラノベ以降の文章しか読めないのではないだろうか。徒然草を読めるようになれ、とは強要しない。だが、日本の高度成長期の文章くらいは、読めるようであってほしい。そういう願いは、贅沢であろうか。
 
『讃美歌』を用いる教会が少なくなった。殆ど古語となり、意味が伝わらなくなっているからだ。私は以前、ある教会からの発信として、『讃美歌』の歌詞に出てくる言葉の意味を解説するブログを書いていた。自分のためにも勉強になったが、誰かの役に立っただろうか。讃美歌を歌えば、日本語の言い回しや、少し古い言葉についても、実に馴染むようになるし、言葉を豊かに知ることになるのに、と私は密かに思っている。



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