憲法改正もアリではないのか

2023年9月14日

憲法九条を守れという声は、キリスト教界の中でも大きい。戦争放棄と平和主義を示す九条は、世界的に見ても価値ある理念のように考えられるということだろうか。少なくとも潜在的には、多くのクリスチャンがそれに賛同するように見える。もちろん、様々な考え方があるし、政治家やその近辺には、必ずしもそうでない人も多々いるだろうが、強い九条信奉の姿勢を示すグループもある。
 
憲法九条を守れ。その理想観も目的も理解できるが、私はその運動に参加しようとは思っていない。その声に簡単には賛同できないのである。
 
たとえば、改憲は絶対悪だ、改憲してはならない、という声が強いと、逆に改憲して何が悪いのだ、という反論も強くなるだろう。それを論理的に防ぐことはできないであろう。むしろ改憲をしないというほうが、世界的には異常である。外国の憲法では度々変更がなされている。時代に合わせ、人々の意識に合わせ、人間の原則は変わることは自然だからだ。
 
そんなつもりはない、と九条を守る派も考えているだろう。変えてはいけないのは九条なのであって、他の条項にこだわつているのではないからだ。とにかく九条は守れ、変えたら戦争ができるようになってしまうし、戦争を起こす必要があると考えているグループがそこを変え、動けるようにしたいのは明らかではないか、ということである。
 
第2章 戦争の放棄
〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第9条日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 
自民党は公式に、改憲の方向性を示している。ウェブサイトから引用する。
 
●憲法改正により自衛隊をきちんと憲法に位置づけ、「自衛隊違憲論」は解消すべき
●現行の9条1項・2項とその解釈を維持し、自衛隊を明記するとともに自衛の措置(自衛権)についても言及すべき
 
自衛隊の実情は、九条に関して「違憲」と言われる余地を残している。だから、実情に合うような項目に改めよう、という触れ込みである。だが、それは詭弁に過ぎない、という反対派がいるし、アメリカの援助の下で、戦争を可能にする魂胆がある、と見ているのであろう。特に東アジアでの不穏な空気に危機感を抱けば、「では攻められたときに無防備で何もしないのか。あなたの家族が殺されて傷つけられても何もせずに見ているのか」というような決まり文句が向けられることも予想される。実際すでに巷ではそういう声が飛び交う。
 
珍しく、政治の話をしているように見えるかもしれないが、私は全くそういうつもりではない。私は、改憲すればよいと思っているのだ。しかも、政治的なことについては全くの無知蒙昧な前提としてだ。
 
改憲とは、憲法を変更することである。「改正」という意味合いで正しい方向にするから、「改」の字を使うのではないかと思う。それではかの九条の「変更」を考えてみよう。
 
たとえば、「国際紛争を解決する手段としては、」を削ることも、改憲の一つであろう。あるいは、もっと一切の軍備を否定し排除するような文言に改正することの提案があってもよいのではないか。キリスト教界としては、そこまでする可能性を考える道もあり得るのではないか。もしもその道があるならば、一切の改憲を否定する必要はないし、九条を(いまのままで)守れ、という言葉を金科玉条のように叫ぶ必要はなくなるのではないか。
 
これもまた「改憲」であるはずである。第九条をただ守るだけが目的のすべてではないとするならば、の話だ。
 
私は、九条を偶像視することはしない、と言っているだけである。偶像崇拝というものは、私たちがそれのみだ、と思いこむところに簡単に紛れ込んでしまうものである。もっと過激に改める道については提言せず、ただいまあるものを唯一絶対のものとして護るということに固執はしない、と言っているだけである。
 
そのような私に、「では攻められたときに無防備で何もしないのか」と刃を向けるなら、どうぞそれもよい。どうせ私の考えていることがまかり通ることはないだろうからである。だが、だからと言って、考えを言ってはいけない、ということもないはずだ。狂信的だと言われても構わない。ただ、聖書を命懸けで信じるということは、そういうことなのだ、という捉え方について、立ち止まって考えるきっかけがひとつできるならば、それでよいと思っている。その程度の、無責任な声である。
 
それとも、九条を守れという人々は、軍備を棄てよとは考えず、九条を保ちつつ武器をいくらでも持っていてよい、としているのだろうか。「国際紛争を解決する手段としては」なのだから、戦力はいくらもっていても、行使しなければこの九条は立派なものである、ということで満足しているのだろうか。戦力をたくさんもっていたほうが、攻められても安心だ、という前提を大切にしているのだろうか。本当にそれは安心なのだろうか。私は「守れ」の背景をもっと明らかにしてくれたら分かりやすいのだが、と思っている。



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