危機体験

2023年9月10日

今年も水害の報道が幾度も流れた。線状降水帯などという、聞き慣れない用語もすっかり身近なものとなった。少し前までは、ゲリラ豪雨という名前が飛び交っていた。何かきちんとした定義があるのだろうが、異常気象という言葉が人口に膾炙して久しい。地球温暖化などと口では軽々しく言うが、どのくらい深刻になるのか、多くの人は気にしていない。それどころか、それを訴える若い女性を、先のない大人が非難までする始末だ。ただ、今回はそれを体験のレベルで触れるに留める。
 
洪水の映像にも、見慣れてしまうほど出会う。水没する自動車を見て、どうしてそんなことになったのか、私も不思議に思っていた。なんでこうなることが分からないのか、と。
 
もちろん、最初はそこまでいかず、その後水が増えて、ああなった、ということは推測される。しかし、亡くなった人が乗っていたとなると、なにもわざわざ水深の深いところに突っ込まなくてもよいのではないか、という不思議な気持ちがしていたのである。
 
先日、福岡にも急激な雨が襲った。水害とまでは言えないほどだった。私も、雨予報を知らないのではなかったが、それまではカラリと晴れていたし、買物をする前も十分な陽射しがあった。食料品を買って外に出ようとすると、愕然とした。たたきつけるような雨である。先ほどまでポケットに折りたたみ傘を挿して公園をうろついていたのだが、そのときは抜いていた。仕方がなく車まで走ったのだが、わずかな時間でもかなり濡れてしまった。
 
目の前が見えないほどの雨でもない。止むのを待つほどでもないと判断し、ゆっくりと走り出した。道路がわずかにだが、水に包まれていた。しかし、どうということはない。但し、山道を走らずに帰ろうか、ということを考えながら進んでいた。
 
すると、道路事情によるのだろう、左側がやたら深い水のようになっている道に差しかかった。対向車がいないときに避けて右側にはみ出した。左側の側溝の穴の開いた蓋からは、噴水のように水が跳び上がっている。そのために益々道路に水が供給されていく。
 
ほんの短時間でのことだった。あっという間に、雨も降るし、水浸しにもなく。水位がこのまま上がっていくことのないように、より高い場所の道に逃れたので助かったが、タイヤの半分近くまで水が来ていたかもしれないと思う。血の気が引いた。もたもたしていたら、報道の映像で見る水没車になるのではないか、という危機感を抱かざるをえなかった。
 
きっと、水害の中の車も、まだまだと思っているうちに、あっという間に水位が増えたのではないかと思う。やはり、こうしたことは体験してみなければ分からない。その体験というのが、まともに被害であり、へたをすると命を失うということにもなりかねないところが、いっそう怖いことだと自覚した。
 
危機というのは、経験しなければ、身に染みては分からないものなのだろう。人類の危機も叫ばれているし、魂の危機というものも、キリスト者は当然耳にしている。だが、それが生ぬるいものではないのだろうか、と反省するきっかけになったのである。



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