誰のために生きるのか

2023年9月8日

『ほんとはこわい「やさしさ社会」』(ちくまプリマー新書・森 真一) を読んでいた。この新書シリーズは、「岩波ジュニア新書」に近いコンセプトをもっている。ティーンズが読みやすいように配慮されている。が、もちろんアダルトが読んでも構うまい。一貫した姿勢で述べ、幾度も繰り返される口調で、誤解なく著者の主張は伝わるものと思われるし、それは大人にとっても分かりやすさという点で同じである。
 
もちろん、こうしたタイプの本を読み慣れない人にとっては、大人であろうが誰であろうが、難しく感じることはありうるだろう。読んだコメントにも、そうしたものが見られる。しかし、それは人の心理について穿った見方をあまりしてこなかったから、という可能性もある。また、いまの若い世代がどんなふうに何を考えているか、あまり接触をもたずに大人になってしまった場合なのかもしれない。
 
今回は、その本の紹介をするつもりではないので、ここから本題に入る。本の本筋ではないが、示唆に富む部分を私は見つけた。それは、「誰のために生きるのか」という問いについてである。そのターゲットの変化が、いまの「やさしさ社会」へ導かれた流れであろう、とこの社会学者は考えるのである。こうした著者独自の推測が、決して科学的な手法によるのではなく、かなり独断的に展開するのが、本書の特徴であろう。当然一定の調査や探究が背景にあるものと思われるが、それを説明するのは煩雑であり、ティーンズに適したやり方とは言えない。だから、読者としてこの著者の大胆な提言を、ただふむふむと聞いていけばよいと思う。
 
「誰のために生きるのか」という問いの答えが、時代により変わってきた、と著者は言う。まず「イエ」。カタカナで書くのは「家」とは別に用語として用いているからだろうが、家系のために家を継ぐとか名誉を重んじて死ぬとか、また嫁に行くとか、そういうのが当然の時代が当然あった。自分よりも「イエ」のために、という生き方が当たり前だった時代である。
 
次に「国家」である。私は「クニ」とカタカナで書いてもよいかと思うが、だとすると古代日本史のような感じになるだろうか。ここで取り上げるのは、そういう意味ではない。お国のために何ができるか、ということが最大の関心であるべきだった時代であり、お国のためには命を捨てるのが当然とされていた時代である。それは、戦争へと突き進むものであった。
 
その戦争は、その後違った形での戦争となった。戦後の高度成長期においては、「会社」が生きる目的となった。会社のために罪を被るというのが美徳のようでもあり、会社のために死ぬという猛烈サラリーマンがいた時代である。否、過労死は世界で知られるようになった言葉であるのみならず、いまも過重労働は続いている。会社のため、という道徳は一時よりは薄れたかもしれないが、会社に雇われていなければ生活ができない、という事情の中では、いまもなお変わっていないと言えるのかもしれない。
 
「やさしさ社会」の本では、これを超えたところにいまの時代がある、と言っている。それは、「自分のために生きる」時代である。自分の幸福を目指す。自分に合ったことをしたい。自分のために働き、生活する。もはや「イエ」のためという建前もないし、「国家」のためなどでは到底ない。そして「会社」のためにということを口走るのも恥ずかしい時代になった。「自分」のためだということは、かつて社会的に言えばとんでもないわがままだと指さされただろう。だがいまは、「自分のため」と口にしても、それが当然というような空気があるのではないだろうか。
 
「自分を信じて」というフレーズが、歌の歌詞に平然と現れるようになって久しい。信じるのは自分でよいのだ。あるいは、自分しか信じられないのかもしれない。しかし、愛するもの、目的とするものが自分であるというのは、実は脆いのではないか、危ういのではないか、と私は危惧している。それは、私自身もそう思っていたことがあったから、経験の中からも言える、という感覚である。
 
イエも国家も会社も、ある種の社会的組織である。どこか抽象的な面もあるが、曲がりなりにも社会組織である。良し悪しを言っているのではない。語る私とは別の次元で成立する組織である、と言っているのである。それらの組織が成立するためには、かなりの労力を要する。となると、その組織を否定するためにも、相当なエネルギーが必要になる、ということである。
 
だが、「自分」は個人である。個人を騙したり、丸めこんだりするのは、組織の場合と比べて、明らかに容易なのである。大きな力や権威の前に、「自分」はひねり潰される。対抗しようとしても、多くの場合、無理な話となる。特に、公的な権威をもつ組織に対しては、何を言っても無駄、ということが少なくないし、それが分かっているから、個人としても抵抗しようとする気がなくなるのが普通である。
 
「自分のために生きる」という意気込みが、果たしてどこまで有効であるだろうか。まことに心許ないものだと思う。
 
それでは、「誰のために生きる」のか。これはまさかと思う人もいるだろうが、「神」を答えとして私は用意したいのである。くれぐれも、それは宗教団体組織のことを言っているのではない。自分の妄想により、自己を投影した神的対象とは明確に区別できるものである。神秘思想に逃避するときの弁明などでもない。
 
突拍子もないことを言い始めた、とお思いになるかもしれないが、たとえば歴史の中を見ても、「神のために生きる」という格率を以て生きた人が、どれほど世界のために貢献してきたか、思い起こすといくらか分かって戴けるかもしれない。
 
口先で「神のため」と自分に思いこませ、残虐なことをやってきた歴史も、人類はもつ。いまもなお、それをやっている現実もある。しかし、私はもっと理想的な領域で、「神のため」というものを想定している。偽物ではない、本物が確かにあると思うのである。



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