説教と想像力

2023年9月4日

言葉で表し尽くせないものがある。説教者の最初の指摘はそれだったと理解した。黙示録は、イメージをなんとか言葉の中に収めようと努めた結果の書である、ということで、説教者は、とくに音楽の窮地の話を持ち出した。コロナ禍に入ってから、それが「不要不急」なのかという問いかけに悩んだのではないか、ということだった。この言葉については、仏教の僧侶たちが原稿を寄せた新書がある。まさに『不要不急』という題のものだが、これは来週にこの場でご紹介する予定にしている。
 
言葉を考察のテーマとして大いに論争があったのが、20世紀の哲学のひとつの特徴であった。18世紀のカントだと、人間の認識の限界を定める試みをしたのが画期的だったのだが、20世紀だと、言語の中にそうした眼差しを送ることがよくなされた。ウィトゲンシュタインの、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という文は、広く人口に膾炙している。しかしウィトゲンシュタインにしても、語りえぬものが存在しないなどという方向で考えているのではないはずだ。
 
むしろ私たちは、語るべきでないことについて、恰も空白ができることを忌避するかのように、冗舌に思いつきを喋ることで、言語活動をする現場をごまかしていることが多いような気がする。聖書は、語りえぬものについて、見事に語ることを実現したいという性質のものではないと思う。それでもなんとか伝えたい。自分が受けたことを、確かなこととして証言したい。その熱意のなせる業が、聖書という形に落ち着いていったような気がしてならない。
 
人間の言葉は、真実を尽くせない。だから、もっとそれを超越したもの、ある意味で言葉の理想たるところを、神と呼ぼうとしたのかもしれない。本当の意味での言葉とは、神のことにほかならないのだ、と。口先だけで嘘を風の中に泳がすようなことを、人間は平気でする。だが、神はそうではない。神は口にしたならば、それは必ず実現する。神の言葉は存在と一つである。そのような真実の言葉というものは、人間のこざかしい言葉とは異なるものであり、ロゴスそのものなのであった。
 
人間の言葉では語りえぬところに、神の言葉というものがあるのだろう。説教は、それでもなんとか神の言葉が自身において実現した何かを証しし、仲間の前に明らかにしようともがく行為であるのかもしれない。待ちつつ急ぎつつ、なんとか神の慰めを届けることはできないか、神の警告を渡し、神の恵みを手渡すことができないか、格闘しているのではないかというふうに私は感じている。
 
格闘しながら、言葉というものでしか伝えられなかったということで、聖書が成立したのであるとする。それでは、それを受け取る私たちは、どうあるべきだろうか。事実を言葉により何らかのテクストに定める。私たちはそのテクストを通して、背後にあったであろう事実を想像する。そう、その「想像力」がポイントなのだ。説教者の次の指摘は、この点であったと理解した。
 
想像力の欠落という話題が、もはや冗談ではなくなってきたように見受けられる。教育の現場に携わって、子どもたちの国語力が一般的にどうなっているか、生で感じている者にとり、それは本当に切実な問題である。それを話し始めたら、本が何冊も書けそうな勢いがする。ここで順序立ててお話しすることはできそうにないことをお許し願いたい。
 
確かに日本には「空気を読む」という文化がある。一時は「KY」などと呼ばれ、気軽に口に出るような言葉となった。私はたとえば、山本七平の『空気の研究』が頭に浮かぶ。また、芥川龍之介の『神神の微笑』で、キリスト教の神ですら、この日本の風土では体よく呑み込まれて負けてしまうだろう、と老人がパアドレ・オルガンティノに言い捨てて言ったことを思い出す。人は生きるために空気を吸っているが、それをわざわざ意識することはない。そのように意識しないレベルで、言葉にする以前に了解された「空気」とてせみいうものがあり、言葉にしようとする努力を嘲笑うかのように包みこみ、キリスト教が掲げる「神」ですら、この国の一部のものに変わってしまうであろう、というように私は読んだ。
 
その「空気」を、ある意味で私たちは想像しているのかもしれない。見えないけれども私たちを縛る何かを想像し、あるいは信じているのかもしれない。先日、関東大震災百年の話題にまつわる話で、災害時に、日本語が十分でない外国人へどう情報を伝えるか、という通訳の必要性がラジオで語られていた。翻訳アプリも役に立つのではないか、という進行役の問いかけに対し、専門家の回答は、それでは十分ではない、というものだった。たとえば避難所で「ご自由にお取り下さい」と物品が置いてあるのは、ありそうなことだが、これを日本人ならば、「自分が必要な分だけ」という意味に必ず理解する。しかし翻訳アプリが訳し語を受け取った外国人は、「いくらでも、全部でも」の意味に受け取る可能性がある。日本語では言外の「常識」があるのだが、その「常識」を伝える「翻訳」が必要である、というのであった。これに近い問題は、「手話」についても言える。ろう者とのコミュニケーションを、聴者はふだん殆ど意識したことがないであろう。「常識」が異なることがあるのであり、「空気」が通わないことは、当然ありうるのである。
 
「想像力」という言葉から私の頭に浮かんだのは、「説教塾ブックレット」であった。『聖書の想像力と説教』という特集号であり、このブックレットにしては珍しく、全編が1人の文章だけで成り立っていた(セミナーの原稿であるため、質疑応答が掲載されている部分を除く)。講師は並木浩一先生。その中で、読む対象であるテクストが、ただの言葉であるだけではない、という捉え方がなされていた。「自分がテクストを通して自分自身を読むという仕事が発生する」(p30)というのだ。これは私のモットーのようなものに近い。しかし、これは想像力が欠落していると、全くできないことである。もちろんふだんはできる人であっても、こと聖書というテクストにおいては、そこに自分を見ることが全く思いも及ばない、というのは、しばしばあることなのである。
 
その本の中に、聖書が「神を見ることは人はできない」という思想に満ちていることへの、ひとつの楔を打ち込んだ箇所があった。並木先生は、旧約聖書の権威である。出エジプト記24章に、モーセと指導者、長老ら70人以上が神の山に呼ばれるシーンがある。そこで彼らは、イスラエルの神を見ている。「彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」と記されているのだ。これは確かに非日常的な場面であるが、神を見ることが許されていることがあったのだ。
 
このとき、もちろん神も彼らを見ている。彼らは神に見られ、そして神を見ている。メッセージにおいて説教者は、もちろんこの本とは関係ない脈絡からではあるが、神が私たちを知っている、ということを強調するようにしていった。これが私の聞き取った三つ目の指摘である。人は、「神よ、何故」と問うことがある。それは神への疑いというものではないことがあるだろう。むしろ、神に信頼する者だからこそ、神に「何故」と問い続けることが許されているのだ。涙が涸れるほどにまで叫び続ける。その間、神は沈黙しているかもしれない。叫び疲れたとき、人は神の言葉を聴くかもしれない。その件についての、神の応えを聴くのだ。それは、なんだか分かったふりをして神に対して叫ばない者に対してではなく、真摯に神に叫び問うた者に対してこそ、与えられる応えであるはずである。
 
なお、今回の説教では「しばらく待つように」という黙示録のテキストの部分から、「R.I.P.」という略語を用いることがあった。これは非常に高度な引用であった。というのは、次のような事情による。
 
「R.I.P.」は、説教者が紹介したように、英語での「rest in peace」の略だという場合もあるが、元来ラテン語でいう「requiescat in pace」の略であった。これは「安らかに眠れ」であり、死者への祈り、あるいは墓標に刻むに相応しい言葉であった。日本語では「ご冥福をお祈りします」に比較できるだろう。スラング的には、喪失体験を表現するに相応しいと思われる。「ああ、スマホが壊れた。R.I.P.」というような感じである。
 
しかし、主にあってすでにこの世で亡くなった人たちがいる。そうした人々への心配は、パウロが生きていた時代からあった。特にテサロニケの信徒への手紙の第一のほうは、そういう心配へのパウロの精一杯の励ましが記されていることで有名である。その心配は、二千年を経た今もなお、私たちを慰める。教会でも、すでに天に凱旋した(という言い方をよくする)先輩のキリスト者たちがいる。それはまさに「R.I.P.」の語が投げかけられるに相応しい場面であろう。そして黙示録は、そうした世界と生きている者との世界とを、並行し、また重ねながら、描いている。だから、「R.I.P.」の「安らかに眠れ」の意味を、やがてくる神の時を「しばらく待つように」という意味に解した説教者からのメッセージは、深い意味をこめてのものだった、というふうに捉えざるをえないと思ったのである。
 
もちろん、神は、そしてイエスは、こうした者たちのことを知っている。神を知ることと、神に知られることとを結びつける出エジプト記の記事を語った並木先生の話までが、ここに結びついてくるような気がした。かの「想像力」が「自分自身を読む」こと、つまり私たちが自分を聖書の中に見ることを必要とするものであったのと同様に、聖書の中に、世界の出来事、同じ時代を奇跡的に生きているような同じ人間仲間たちの身の上のことを、感じ取ることが必要なのではないか。
 
何故殺し合わねばならないのか。何故飢える子どもたちや大人たちがいても、ここに有り余る食糧が届かないのか。私たちは神に叫びつつ、問い続けなければならないのである。
 
先の本の質疑応答の中で、平野克己先生がこんなことも言っていた。「われわれ説教者がしたいことは、リアリティーをつくるような想像力を持って説教することです」(p130)と。本説教は、まさにそのスピリットに活かされた語りであったと感謝したい。
 
余談だが、あの「R.I.P.」は、どうかするとピリオドさえ略されて「rip」と書かれてしまうこともあるらしい。これは「引き裂く」というよう意味をもつ動詞である。「聖書」の「聖」とは、「分離された」という意味を元来もつ言葉である。ただの「清さ」のことではない。「しばらく待つように」という意味を「R.I.P.」にこめた説教者であったが、そこにまさかとは思うが「rip」の意味を含みもつように語っていたとしたら、私たちは、何ものかと明確に引き裂かれたものであるべきだ、というメッセージをも受け取るべきであったのかもしれない。
 
目先のものに捕らわれるのではなく、言葉で語りえぬものを聞き取ることができるように。そこにある流れに乗ってしまうのではなく、豊かな想像力を以て、神の思いへと心を向けるように。そして、苦難の現象に絶望するのではなく、神の約束を信じて待つことができるように。あるいはまた、神の国の実現のために、自分に何かができないか、と祈り求め、立ち上がることができるように。



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