平和教育の意義と危惧

2023年9月4日

関東大震災から100年ということで、少し話題になっていた。日赤の意識調査で「防災の日」の由来について知らなかった人が半分いた、というニュースが目を惹いた。驚くべきことではないかもしれない。だが、30代で3人に2人が知らないというのは、少しばかりショックだった。親が子に伝えられないという情況を表していると思われるからだ。
 
さらに、朝鮮人の虐殺については、フェイクだと言い張る者が一定数いることを思うと、将来どんどんそのように思いこんでいくような意識になっていくのではないか、と懸念せざるをえない。戦争における虐殺など残虐な加害行為は、みんな嘘だなどと言う者がいるのと、比較可能であろう。
 
戦後、曲がりなりにも「平和教育」が施されてきた。大したことない、などと批判する向きもあるかとは思うが、私は、決してそれは小さなことではないと考える。たとえ単なる合言葉のようであってもよい。「平和」が大切だ、というフレーズを口にするのが当たり前だ、という社会通念の中で人生を重ねることには、それなりの意義があると思うのだ。
 
明治期のドラマなどを見ていると、そういうものがないことが分かる。もちろん戦国時代は当然であるにしても、文明開化とする明治期に、戦争というものは、大変ではあるけれど、それを否定するような思想が表に出ることは、まずなかったようなのである。
 
時に、誰それが非戦論を当時唱えた、などという記述が今の歴史の教科書に見られることがある。それは要するに異端だったからである。今の観点からすると偉いということになるのだろうが、当時は変わり者で誰も相手にしなかったのだ。国の施策に逆らうことなど、殆どの日本人は考えもしなかったし、戦争のないことに価値を置く考えの人など、おおっぴらにはいなかったのだ。
 
戦争は、「イケイケ」で推し進められる。世間が概ねそういう「空気」になれば、誰もが簡単に乗っかっていくのである。かつては「平和」に価値が置かれていなかったから、それがさも当然のことのように行われた。だが、いまは少なくとも「平和」に価値が置かれている。だとすれば、ある種のブレーキがかかることになる。簡単には世間を「戦争」の波に乗せるわけにはゆかなくなった。これが「平和教育」の成果であるとしたら、必ずしも無駄なことではなかった、と私は考えるのである。
 
だが、安心してばかりもいられない。そういう教育がなされてきていても、それにも増して、私たちは依然として「周りを見てそれに合わせよう」とする精神構造を有している。誰かがゴミを捨てれば、自分も捨ててよいと結論を下し、それを見て「みんな」捨てるのが当然だ、という方向に流れてゆくのは、いまも変わらないのである。シーソーのもう片方に次々と人が移動し、ついに傾きは逆転する。それがいつ起こってもおかしくないのが、この国の精神風土ではないだろうか。
 
一人ひとりが考えて、その信念に基づく足場から動かない、というタイプではない。それほどに「考えていない」という現実がある上に、「周りに合わせる」のが知恵だという感情の枠が備わっているとなれば、いくら「平和教育」が施されていようと、分からないのである。その背景として、日本人の誇りを必要以上に強調したり、日本人の加害性を描かない教科書が、現に用いられている。その道を敷きたい人々の「下準備」は、着々とこれまでにも施されていたのである。
 
自分のためにだけ教育がある、という考え方に浮かれている間に、その心理を巧みに操ろうとする者たちがいることに気づくような、蛇の賢さが必要な次第である。



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