読書感想文のコツ

2023年9月2日

もう生徒たちは提出したことだろうが、夏は、読書感想文の課題がよく出る。近年は強要されなくなりつつあるが、以前は「必ず」書きなさい、という圧力があった。
 
感想文というものは、実に厄介だ。子どもたちは、原稿用紙を見ただけで尻込みすることが多い。もちろん、それが楽しくて仕方がない、という生徒もいる。私も、仕事で書かせることがあるが、そんなとき、板書は大きく次のことを書くだけだ。  
 「楽しくかこう」
 
子どもたちは素直なことが多いので、じゃあ楽しもうと楽しんでくれることが多い。私も追い打ちをかける。正解だとか不正解だとかで、◯×をつけやしないんだから、何を書いてもOKなのだから、とにこにこ話すと、どの子も書いてくれる。
 
なんでも自由に書きなさい。こういう教育が、戦後に持ち込まれた。それまでは、「つづりかた」と言って、型を覚えることが肝要だったし、名文をたどるというのも、作文の学習の必須事項であったのではないかと思う。
 
だが、「自由に書く」ことほど難しいものはない。何でも書いてよい、となると、何を書いてよいか分からないのが通例である。何を書いてもよい、などと教師は言いながら、それは書いてはいけない、というお小言が控えている場合も少なくない。
 
本当に偶々だった。何かの理由で、初めて小学生の長男の朝食が「たこ焼き」になった。後にも先にもそんな日はなかったが、その日が、朝ごはんのことを書く作文だった。その作文が、教室に貼られていて、授業参観が実施された。ひときわユニークな朝食だったようで、人目を惹いていた。そんな経験がある。
 
昔風のマンガやアニメでも、とんでもない家族の生態が作文で露わにされる、というネタが数多い。鉄板ネタだろう。
 
さて、読書感想文だが、先日、ウェブの記事で誰かの発言があって、どなたの言葉だったか失念したのだが、いいことを言っている人がいた。まさにポイントであった。
 
 「その本を読んで、自分がどう変わったか、を書くといい」
 
誰だっけ。そうそう、自分の中の保存記事(気になった記事はテキストで保存している)を調べたら、それはあの三谷幸喜さんだった。そこには、「どう思ったか?」ではなく「どう変わったか?」を書くとよい、と促していた。2022年8月にテレビで口にしたことが記事になっており、その内容を、1年後に掲載したものであった。
 
三谷さん自身、読書感想文というものは嫌いだったのだという。何を書いていいのか分からない、という子どもの一人であったのだという。その後の活躍を思うと、信じられないような気がするが、その気持ちは分かるような気がする。私も、コツというものを全く得ることなしに、義務を果たしていただけだったように思う。
 
「自分はどう変わったか」、この観点が、作文を生き生きとさせる。その通りだろう。あらすじが述べられている作文に、誰が読んで魅力を感じるだろうか。その本についてダイジェストに知りたい、という目的の人であればよいのだろうが、命のある作文には感じられまい。あらすじに、少しばかり解釈が加えられていたとしても、「へぇ」で終わりである。ベタなまとめがそこにあったとしても、
 
救いの証しなるものが、ひとつの作文であるとすると、やはりそこには「自分がどう変えられたか」という中心があるはずだろう。聖書から命の言葉を説くということは、聖書の言葉が自分をどのように変え、あなたを変えることができるか、それをメッセージしなければ、意味があるまい。そしてそのとき、それはただの「作文」ではなくなっているはずである。
 
もしも、つまらない感想文を読み上げることが、礼拝説教としてまかり通っていたならば、聞く側もすっかり骨抜きにされてしまうことが懸念される。人間は、悪い習慣には慣れてしまうものなのだ。すでにそうなっていないか、自己点検が必要である。もしそこで示されて、これではいけない、と気づいたなら、そしてなんとかしたいと思う方がいらしたら、ささやかな知恵ではあるにしても、大切な命に関わるお知らせなのだから、私は協力を惜しまないつもりである。



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