失敗とまちがい

2023年8月29日

タクシーに、轢かれそうになった。こちらは横断歩道を渡っていた。タクシーは右折の機会を待っていた。対向車が途切れたとき、そのタクシーはアクセルをぐっと踏んで曲がってきた。横断歩道を歩いている私は道の中央あたりにいた。通常タクシーからそこは真正面に見えるはずであった。だが、さらにアクセルは加速した。これは明らかに、横断歩道や歩行者を、全く見ていなかったことを意味する。私は飛び退いた。タクシーは構わずそのまま通り越えたところで、気づいたようだった。一瞬ブレーキをかけ、停止したが、こちらをさして気にすることもなく、そのまま走り去った。
 
横断歩道の前に車が止まっていたとしても、子どもたちには、運転手が自分のことを見て気づいているかどうか、必ず確かめなさい、と教えてきた。車は必ずしも、人を見ているとは限らない、という理屈を知らせてきた。今回、私はそれをしていなかった。さすがに遠くから勢いよく曲がってくる車の中の運転手の視線を知ることは、できなかったからである。しかし、まさか人間へ向けてアクセルを踏んで走ってくるはずはない、という思い込みが僅かでもあったから、飛び退くのが一瞬遅れたのは事実だ。それでスレスレで命ながらえたのは、幸運であった。
 
タクシーの運転手といえば、プロである。事故を起こせない事情にある。自ら事故を起こせば、収入が断たれる覚悟が必要である。もし過失が通常五分である情況だったとしても、プロ運転手としての責任により過失割合が増える可能性もあるのだという。それくらい、プロに徹しているはずである。だが、それでもこうしたことは起こすのだ。ミスや失敗は、誰にでもあるということだ。
 
妻が見かけたJAFの車の運転手の話は忘れられない。コンビニに駐車して、店内に入るとき、そのJAFの車は、タイヤストッパーをタイヤにかませていたというのである。もちろんそこが坂であるわけがない。だが、万が一にも何かが起こってはいけない、というのがJAFの精神なのだ。私は感動した。本当のプロだと思った。
 
それでも、事故を起こす可能性が全くない、などと言えるものではない。人間、何らかの失敗があるという前提で事に当たるべきである。だから保険というものがある。妻は、こうした保険というものについては、あればとにかく入るという考え方である。実際、それでこれまでどれだけ助かったか知れない。これからも、そうだろう。
 
偶々なのだろうが、興味深い本を最近二つ読んだ。ひとつは『失敗の科学』。人気の作家マシュー・サイドによる、失敗を組織が回避するためのアイディアである。医療事故が航空機事故に比して一向に減らなかったのは、失敗を検討することをしなかったからだという。組織が、失敗した者を個人的に糾弾し罰することを繰り返していれば、いつまでもミスは減らない、とこの本は言う。そんなことをすれば、失敗を隠蔽しようとするだろうし、それでは失敗の原因について検討する道もなくなる。そうではなく、失敗を組織全体の問題として、どうすればそれをなくすことができるか問うことが必要であり、そのためには、むしろ失敗例を報告することを奨励する向きに動き出さなければならない、というのである。
 
もうひとつは『まちがえる脳』(櫻井芳雄)である。こちらは2023年発行の岩波新書で、脳科学研究の分野の新刊であった。脳の神経伝達のメカニズムについて触れながら、脳に関するその伝達が、コンピュータのようにノーミスでなされるのが原則であるようなあり方ではないことを強調する。確率的な、曖昧な形で脳は働くようにできている、というのである。これは、近年脳の働きをいかにも物質原理でメカニックなやり方で明解に説明して人気の、脳科学の一部の本を批判するものでもある。現に、脳科学の最前線でも、素朴なことがまだまだ何も分かっていないのだ、というスタンスを見せている。
 
ただ、脳はこのようにまちがえるのが前提である、ということは、脳がポンコツであることを意味しているのではない、ともいう。だからこそ、創造性というものがあるのだ、回復の可能性を備えているのだ、という視点を私たちに提供してくれている。この本が述べているのではないが、私は、そこに「自由」という考えのひとつの契機が潜んでいるような気がしていた。一種の錯覚のようであってもよい、とにかく人間を機械として定めてしまい、人間が人間をコントロールする欲望と策略が繰り返されてきた歴史から、人間を解放する「自由」の適切な道に、光を当てることができたらよいのに、と思ったのだ。
 
神について、メカニカルな神を想定したくなるタイプの人がいる。そうなると、その神のサイドに属すると考えている当の自分というものも、そのような形で完全であるべきだと考える。新約聖書で言えば、ファリサイ派の人々や律法学者というのが、そうした指向性をもつ考え方をする仲間であろう。彼らは真面目なのである。厳格であり、神を理想的に掲げ、そしてそのために懸命に従おうとする自分たちに、自ら鞭を当て、聖く正しくあろうと熱心にもがくのだ。
 
だが、イエスはそれを徹底的に非難した。そこには自由がない。喜びがない。イエスの推奨する喜びというのは、それとは別の向きにある。クリスチャンは、このイエスを信じた。だが、このイエスの側に付こうとするクリスチャンたちも、どうかすると、先のファリサイ派の人々や律法学者と同じ思考回路に陥りやすいという罠がある。そのとき、失敗を隠蔽し、閉鎖的な中で互いに安心し合うだけのものとなり、また同じ失敗を繰り返すことになる。悔い改めというのは、向きを正反対に換えることだったはずだが、そんなことはもう済ませた、と嘯いて、頑なになってゆく。
 
私たちが聖書を、命のないきまりや教義として掲げて、それを信じましょうと、これまた命のないメッセージを、命を知らない者が毎週繰り返して喋っているのを聞いて、それで十分なものだと慣れてしまうと、どうなるだろうか。この問いかけの意味をご理解戴いたとすれば、その方は、きっと大丈夫である。失敗を知り、まちがえることを当然としながら、自分を頼らず、自己義認せず、神からの言葉を受ける姿勢が、おそらく身についているからである。それが身につくというのは、理屈ではないし、神学校を卒業することでもなく、聖書についていくらかの知識がある、ということでもない。こうしたことも、お分かりになる方は当然だと肯いてくださるであろうし、何のことを言っているか分からない、という方には、いくら説明をしても、無理なことである。
 
私は京都では運転免許を取得しようとはしなかった。京都に住む限り、車がどうしても必要だという情況ではないと考えていたからだ。だが、福岡に帰るということを決めてから、けっこういい歳になって、自動車学校に通うようになった。福岡では車が必要だと考えたからである。そのとき、心理テストを最初に行い、自己分析をし、また担当教官との相性を探ることがあった。私は、真面目なタイプではあったようだ。だが、警告があった。真面目である故に小さなことに注意が捕らわれ、いっそう大きなミスを犯して事故を呼ぶことがあるから気をつけよ、と。言われてみれば分かるような気がした。実際、その指摘は当たっていた。
 
失敗を恐れて行動に出られない。『まちがえる脳』の著者は、最近の学生が基本的にそのタイプであることに驚くようなことを書いていた。もちろんそれは、今に始まらない。失敗してはならない、という意識が、言動を萎縮させることは、もっと以前から、私たちの世代でも始まっていた。否、集団社会の支配を受けがちなこの国で育つと、多かれ少なかれ、その傾向にあると言えるのではないか。
 
ルターが言ったという、「大胆に罪を犯せ」という言葉は、如何にも逆説的であるように聞こえるが、こうしたことを考えると、それはむしろ正論であるようにも思えてくる。但しルターの場合は、「大胆に罪を犯せ」に続いて、「しかして更に大胆に悔い改め、大胆に祈れ」というようなフレーズかあったものと思う。罪という失敗は、きっと誰でも犯している。そこを欺瞞で隠蔽して、仮面をつけて演技をしていることが、実は最大の罪へと変ずるものであることを、聖書をお読みの方は、すでにお感じであるだろう。それを決して、他人事としていてはならないはずである。



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