言論が含みもつ危険性について

2023年8月27日

慎重に、いろいろなケースを想定しながら話をする人がいると、聞いていてもやもやする。それに対して、自信満々に物事をきっぱりと言い切る人は、言うことが分かりやすくて、なんだかカッコいい。これはこうなんだ。何々は何々に決まっている。そんな強い言い方をぐいぐいと続ける人は、正しいことを言っているように見えて仕方がない。
 
その心理が、理解できないわけではない。だがもちろん、それは危険なことだ、というのが、ここで言いたいことだ。いまやYouTubeの影響は大きすぎる。子どもも見るのが大好きだ。そのYouTubeで、これはこうなんだ、と断言する人、本人と支持者が言うには「論破」している人の姿には、無条件で拍手を送りたくなってしまうかもしれない。特に、ニュースや解説などで年配の大人が話していることや、政治家の発言をガツンと批判する発言は、胸の空くような気がするのか、これこそが真理だ、と思いこませるに十分な理由があると言えよう。
 
だが、歴史上の「熱狂」というものがどれほど危険なものであったか、歴史の授業は教えなかっただろうか。教えたとしても、それは自分には当てはまらないことで、過去の人が愚かだったのだ、と他人事のようにしか捉えられないのが、悲しい哉人間の性であるらしい。
 
たぶんそれは、発言している本人も、自分が正しいと確信しているのだろうし、たとえそれが錯覚であったとしても、自信があるから強気で語るのだろう。そしてそれを信奉する者が次々とネットの声の力になってゆくと、その正義感は揺るぎなきものとなっていくことだろう。
 
危険な独裁やカルト宗教が急速に勢力を伸ばしていく背景にも、そういう構造があるように思われる。ただ、いまは別のところからその現象を検討してみよう。
 
実はそのような論破気取りを商売としていた人は、2500年前から確実にいた。そしてその生き方が社会を引っ張っていた。議論に勝つ方法を教授する商売があって、言論というものは、議論に勝つためにこそあった。民主制の中では、そのようにして勝てば権力を握ることができたから、論破する技術は、いわば出世するためには必需であったのだ。
 
ソフィスト(ソピステース)と呼ばれていたその教師らは、弁論術に長けていた。だが彼らは、その後その価値を歴史的には否定されるようになってゆく。ソクラテス対ソフィストの対決を、ソクラテス側にいるその弟子プラトンが著作物とし、学問のテキストとし、その伝統が西洋の根柢に置かれたのだ。ソクラテスは、口先八丁のソフィストのやり方をこてんぱんにやりこめる役割を果たし、その故もあった市民感情の反発を招き、裁判という形を経て殺された。ソクラテスは人間ではあるが、キリストと類似の過程を経ていることから、この文化は西洋文明の基礎となった。
 
哲学は、「知を愛する」という意味の語からできた語である。また、それはソクラテスにとり紛れもなく「善く生きること」をモットーとするものだった。これがキリスト教神学と共働して、西洋文明を作り上げてきた。そうなると、ソフィストのやり方は、哲学の対極にあたるものとなり、「善い」ことの反対に置かれることとなった。つまり、議論に勝つために口先うまく論ずるだけのものは、たとえ実社会で、とくに議会のような場では用いられることはあっても、人生の価値観からすると亜流であり、本来の善きものと見なされることはない立場のものであった。
 
こうしたことは、哲学のイロハに必ず説明されている。だが、日本では、教育の場で哲学も宗教も学ばない。学ばせない。かろうじて高校倫理でソクラテスという名を知るが、項目を暗記する知識としてしか伝えられない。欧米で、ディベートが盛んだなどと思われているが、哲学や宗教がそれなりに教えられた上でのディベートであるから、そこでただ厚かましく論破することが目されているのではないのだが、それさえも、イロハを学ばない文化では知ることがない。
 
ただ強気で発言して論破する者がカッコいいように見えるというのが、なんとも浅はかな事態であることが、こうした背景から理解されるようであってほしい。思いつきで何か「分かりやすい」ことを、いかにも「常識に反して」言い切れば、いかにも本当のことのように聞こえる、という構造の危険性を、弁えている社会であってほしい。
 
ちょっと違うことを大胆に言えば、すぐさまそれが世の嘘を暴く真実であるかのように錯覚する。だが、思いつきで述べたことで、解決できるなどというようなことは、基本的に、ない。絶対にない、とは言わないが、基本的に、それは疑うべきである。そういうことを、人類は高い代償を払いながら、歴史の中で学んできたと思うのである。
 
むしろ、問わねばならない。問うことの重みというものを訴えるのも、また「哲学」である。「哲学」は何の成果ももたらさない、と思われている。実際そうだと言えばそうである。だが、「哲学」は何事でも「待てよ」と立ち止まり、検討する。調べてみる。確かめてみる。思い込みで暴走する熱狂から距離を置いて、それでよいのか問い直すのである。それは、自ら行動を起こさないとなると、口先だけのものであるように、非難されるかもしれない。だが、行動を生んできたのもまた、哲学だったのである。思想史を重ねて歴史を学べば、それは簡単に見出されることである。
 
似たことは、「ファリサイ派」で代表される、福音書の論敵に関しても言える。ヘレニズムではソフィスト、ヘブライズムではファリサイ派という代表のさせ方でよいだろうと思うが、どちらからも、人間の陥りやすい思考と感情の罠への戒めを与えてくれる。残念ながら、日本の教育文化には、それを周知のものとさせるものが欠けている。オウム真理教や統一協会などの事件が、その故に生まれた、とするのは言い過ぎかもしれないが、無関係ではあるまい。
 
尤も、熱狂的な宗教団体のもたらす悲惨な事件は、欧米にもある。アメリカは特に、純朴な形で聖書を信じる傾向が伝統的に強い(欧州のような懐疑的な眼差しに薄い)だけに、ひとつ間違えれば暴走する危険性もある。だが、それにブレーキをかける力があるのも、またそれなりに哲学や宗教が文化のベースにあるからだ。統一協会と与党政治が簡単に手を組むことができた背景には、そのブレーキが弱かったということがあるのではないかと思う。それをずっと知りながら強く指摘できなかった私も、その責任がある。その痛みを背負いながら、被害者や関係者に、何か役立つ発言ができればいい、と望むところである。
 
断言する人がカッコいいように見える点については、逆批判を恐れてあまり知識人も強くは言わないようにしているのだろうか。もっとマスコミは、言論の意義を突き詰めてもらいたい。ただ、あくまでも営利企業である多くの報道機関にとっては、やはりある筋のことについては沈黙しなければならない、暗黙のルールがあるということなのだろう。だとすれば、なおさら在野の私たちは、マスコミの構造も含めて、言論に含まれる危険性につい、学ぶこと、そして周知でいることが、求められるはずだ、と私は考えている。



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