猫の写真家に

2023年8月23日

猫の写真家の本に対して、吠えている書き込みがあった。この写真家は汚い猫の写真を撮らないが、世の中には傷つき病気になり死んでいく猫がいることを知らないのか、そのために尽力しないで自分だけ猫の写真で金儲けをしているのはけしからん、というのだ。どうも、このような考えを呈する人は時折いるようで、ちょつと検索すると、ブログなどでも複数見かけた。
 
私が猫が好きだから、というわけでもないし、その写真家の写真を見ることもあるから、というわけでもない。私も猫の写真を撮っているというからでも、もちろんない。が、何か釈然としないものを感じて仕方がなかった。何が、そのような書き込みに対して違和感を覚えさせているのだろう、と少し悩んだ。
 
私も、不憫な猫を知らないわけではない。せめて、野良猫と呼ばせないという意気込みで、一定の地域に囲うような形で生きながらえさせるという「地域猫」の活動に、ごくごくささやかながら、参与させて戴いている。まことに「戴いている」という程度のものでしかないから、敢えてこのやや妙な日本語を使うが、本当にボランティアとして日々猫たちの世話をしている方々には、頭が上がらない。
 
飼い猫は、手厚く養われる。だから、外猫よりは長命だというのが、一般的な理解である。地域猫の中には、具合が悪くなると一旦ボランティアさんの家に匿われるということもあるし、そもそも外での暮らしが無理なので終始室内というケースもあるが、多くは外で暮らしている。蚊に刺されて耳の裏がただれているような猫もいるし、ケンカをして大けがを負うこともある。見つかり次第捕獲して治療をするが、その費用も寄付か、またはボランティアさんの手出しとなる。箱のハウスもつくってもらい、冬は毛布を敷き、カイロを毎朝取り替える。もちろん猫のごはんも朝晩交代で届ける。大雪の日も台風の日も変わらない。このように大切にされているけれども、やはり外は外。家猫ほどの長命は期待できないとされている。中には、猫が気に入らないのか、これを殺す人間も実際にいる。
 
だからと言って、猫の写真家を悪く思うことは、私には少しもない。どうして、写真家に対して、不幸な猫のために何かしたのか、などと詰め寄る気持ちが起こるのか、よく分からないのである。
 
私たちは、美しい絵を描く画家に対して、汚れて働く人間を何故描かないのか、彼らのためにお金を出さないのは偽善だ、などと迫ることはないだろう。サッカー選手に、世界には貧しくてサッカーもできない子どもがいるが、なんとも思わないのか、などと文句を言うことはないだろう。テレビに出る歌手や俳優に、よくも貧民の真似ができるものだ、儲けた金を全部寄付したらどうだ、などと言うこともないだろう。
 
かの文句を言う人が、自ら、傷ついた猫を保護して苦労しているのだったら、少しは同情する。だが、もし私が自分でそのような苦労をしているのであったら、わざわざ写真家を悪く言うことはしないだろう。美しい猫の写真を撮り、そのことで猫に対する関心をもってもらったら、その次に、困っている猫たちのことも知ってください、ともちかければよいと思うからだ。その写真家も猫を愛しているからこそ、撮影しているに違いない。自分も同様に猫を愛しているのであれば、写真家のことをこき下ろすようなふうに言うような気持ちにはならないように思うのだ。
 
それよりも、どうして不幸な猫がいるのか。むしろ、怪我をしたとか病気だとかいう前に、野良猫を捕まえては「殺処分」しているほうが、断然多いはずである。ある地方自治体では、いろいろ努力して、そのようにして殺してしまう猫を殆どゼロにまでしているところもあると聞く。が、大抵の地域では、行政上、犬や猫を大量に殺害している。その多くが子犬であり子猫であるともいう。どうしてか。苦情が出るからである。人の庭を荒らす、人間に対して危ない、理由はいろいろあるだろうが、簡単に言うと、人間の邪魔になるからだ。
 
そうして、猿も熊も鹿も猪も山奥に追いやられ、その山へも人間は活動地域を広げている。そして人の住むところに現れたと言っては、危険だ、畑を荒らすなどと言って、ハンターにより射殺される。あれは害獣だから、殺して当然だ、という理屈をつけて。
 
誤解しないで戴きたい。私も人間である。猿や熊がその辺りにいて平気でいられるわけではない。食べるために動物を殺すこともしなければ、私もまた生きていけない。だが、食べる対象としてでなくても、この社会は、動物を「処分」として殺す。それが人間の法律であり、正義となっている。自らに正義だと言い聞かせながら、そうやっている。
 
なんとかならないか、と思う。よい知恵はないか、と思う。せめて、出会った動物と、一種の情が通うほどにまで接していれば、大切にできないか、というところから、とりあえず始めているのがせいぜいのところだ。一度にそれ以上のことはできない。まして、それを他人に強要するようなことは、できるわけがない。
 
動物写真家に向かって吠えるというのは、動物の問題とは別のところからくる何かがあるような気がしてならない。人が口に出して議論することは、当該の問題そのものとして論じなければならないことも当然あるが、そうではなく、発言する人の心の中の何か別のものから発されているというようなことが、ありうると思う。
 
猫に限らず、動物と人間の関係の問題は、思想界の一部では、近年ひとつの考察分野となっている。私ももう少し学んでみたいと考えている。



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