いつでも正義が悪を成敗することを前提する

2023年8月15日

最近またドラマでもあったが、「悪いこと」をした人の家の前に集まり、なんてヤツだと声を挙げる。「悪者」はどのように成敗をされてもよいのだ。群衆はそのうち言葉を投げるだけではなく、石をも投げる。ガラスが割れても、投げた方が罪に問われることなどない。
 
戦時中、海外から届いた絵はがきをもっていただけで、石を投げられたというような場面も物語であったかと思う。
 
聖書の福音書にあった、イエスへの怒号もそうだったが、二千年経っても、人間は特別優れたものに変わったというわけではなさそうだ。
 
誰かが「悪」だというレッテルを貼られる。すると、そこから身を離した者たちは、すべてが「正義」の陣営につく。正義の群衆に紛れ込めば、悪をやっつけることはすべて正義となる。そこから石を投げても、傷つけられた方が悪い、自業自得と吐き捨てればよいのだ。
 
隠れて石を投げる者は、独りで矢面に立つことのないように、巧みに振舞う。勢いのよい多くの側にさえいれば、さしあたり安全なのだ。
 
「いじめ」も「ヘイトスピーチその他」も、一部の人々が「やめよう」と呼びかけるのに、ちっともなくならない。それは、このような精神構造があるためだ。個人の中にそれがあるせいでもあるが、社会風土もそう、空気のようなものでもあるのだろうか。それをまた特定の個人の責任にして吊し上げると、結局同じことをまたやっていることになる。人が絶対的な正義を主張すると、いつでもどこでも、そのことは起こるのだ。
 
さらなる問題は、その種が、例外なく誰にでもあるということ。私だけは例外だ、と最初から可能性を除外することが、その種の最大の栄養なのである。私もまた、ここで誰かに石を投げているのだろう、という虞を抱かずしては言葉を紡げない。
 
誰に対しても「良い知らせ」というのがあるのだろうか。私はあると思っている。私は、それに救われた。誰でも、それにより救われる可能性がある、とも思っている。それを伝えたいと願っている。



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