【メッセージ】死を超えてゆく

2023年8月13日

(詩編23:1-6,ヨハネ11:25-26)

たとえ死の陰の谷を歩むとも
私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ
あなたの鞭と杖が私を慰める。(詩編23:4)
 
◆子どもと死
 
中学入試のための国語の授業をすることがあります。つまり小学生への授業です。物語は、「心情」を読むこと。さらに「心情の変化」に気づくこと。それは、「成長」でもあること。これを構えておけば読めるはずです。以前は、物語は、そうした明るい希望あるものが中心でした。ところが、社会は変化します。「いじめ」の問題は以前からありましたが、最近は物語にも正面からそれを含めるものが増えてきています。
 
不登校になったり、拒食症になったり、悩める子どもたちの姿が描かれることも珍しくありません。それに加えて、祖父母が亡くなる前後の場面が問題に選ばれることも多くなっています。「死」を描くことで「生」を考えさせる狙いもあるのでしょう。
 
教えるのは読解ですが、通り一遍の解き方テクニックで済ますのは心苦しいものがあります。国語は半ば道徳です。日本では、その道徳という顔の中で、宗教を扱わねばなりません。宗教が教育から排除されているからです。
 
いまのところ、子どもの「自死」についての国語教材は見られません。私がただ知らないだけかもしれませんが、出題はたぶん出しにくいでしょう。でも、いずれ出てくるかもしれません。一般に、子どもはそのようなことをしないものと見られていましたが、どこか意図せずしてそうなっていくようなものも感じますし、今後大人たちが真摯に考えて、省みていかねばならないことであろうかと思います。先般、一年生の子が問題を解き間違えてすねた際、「しにたい」と口走ったときには、さすがに焦りました。
 
子どもが「死」をどのように捉えているか、それはもちろん人により違うものでしょう。大人でも様々ですから。
 
私は、小学校低学年のときに意識したことを覚えています。死んだらどんな気持ちになるのか、息を止めてみても、分かりませんでした。いえ、それだけだと、ずいぶん子どもっぽい考えのように聞こえるかもしれませんが、実はその程度の認識ではありません。永遠の暗黒、感覚もない世界というものを想像すると、恐怖に苛まれるしかありませんでした。そんな陰を背負う子どもになっていました。
 
母の実家は禅寺でした。そのことも、関係していたかもしれません。そこには墓がたくさんあります。仏教が教えこまれたという経験はありませんが、般若心経は覚えたらいいと母が言うので、小学生のときに覚えました。まだ言えます。同じ頃、祖父の死を目の前で経験したことも重なって、無常感は身に染みていたような気がします。
 
◆死は怖くないのか
 
大人になると、そこから気を紛らすことを覚えます。妙に達観して、「死んでもいい」などと簡単に口にすることもあります。歳を重ねれば、お迎えがくるのを待つとか、ぽっくり逝きたいとか、諦観を悟ったような声も聞きます。どこまでがどう本心であるのか、他人には分かりません。人により、やはり違うのではないかと思います。
 
しかし「死」について話をすることは、一般的に一種のタブーとなっているようにも見えます。ですから、そんな深刻な話を敢えてしようとはしなくなるし、場を壊すような話題を提供するというのも、なんだか無粋です。そうしているうちに、自分でもなんだか「死」を回避して、気ままに楽しい毎日を送っていればよいだろう、というふうに多くの人が考えているとしたら――そうした点をひとつの踏み台にして、思索のひとつの過程で徹底的に掘り下げて有名になったのが、ハイデガーの哲学でした。
 
それは、本来「存在」という概念を問うためのひとつの準備的段階のようなものでしたが、人間(ハイデガーは「人間」とは呼ばないがここでは便宜上そうご紹介します)は、いうなれば退廃的で堕落した状態でいるのが通例だといいます。しかし、自分の「死」というものを意識し、しかもそれをただ恐れるのではなく、その死までの時間を重く考え、自分の生き方を見直して襟を正していこうという気持ちになっていくとしたら、決してつまらない人生を送ることはないのだ、というような意味合いを、世界は感じ取りました。
 
誤解なさらないように。実に通俗的にご紹介しています。哲学に関心をお持ちになりましたら、ぜひ解説書などをお触れください。このような「人生論」のように受け止められることは、ハイデガーの意図するものではなかったのではありましたが、それでも20世紀に、人の生き方に強い影響を与えた思想となりました。後のハイデガーがナチスに加担した姿を見せ、その思想すら戦意昂揚のようなものへと傾いたことを、そのまま認めることは適切ではないかもしれませんが。
 
それでも「哲学」で「死」を達観できるというのは、無理と言えば無理なのでしょう。私はその問題を、キリストとの出会いで、ひとつの解決の道を与えられることになります。その最初の教会で、まだ受洗前でしたが、聖歌隊の伝道ツアーがあり、証しをしたことがありました。死を恐れていた自分の変化を語ると、そのコンサート後、四十代くらいの女性でしょうか、私に話がしたいと言ってきました。自分は死は怖くない、と話すのです。子どもも産んだし、思い残すこともないのだ、というようなことを話してくれたのではなかったか、と思います。
 
世の中には、危険を顧みず、まるで命知らずと言われたいようなことをする人もいます。無謀なタイプです。それこそが、「死は怖くない」というようなものかと思っていましたが、しみじみ生きていても、そこに恐怖を見ない、という人もいるものだと知りました。
 
死にたいという人もいます。近年SNSでそうした人が簡単につながって、集団で死ぬという事件が起こることがあります。痛ましいものがありますが、独りだとなんらかの寂しさがあるのでしょうか。やはりいまひとつ勇気のようなものが出ないのでしょうか。しかし、「死刑になりたい」という気持ちを理由にして、無差別殺人を実行する者もありました。身勝手と言えば身勝手ですが、実行した者が現実に何人も会われていることからすると、潜在的にそのように思っている人が、その何百倍、何千倍いても、不思議ではないと思われます。
 
◆火の鳥
 
現代でこそ、「基本的人権」が大切だという共通ルールが生まれつつありますから、簡単に人を殺すことが許されるわけではなくなりました。しかし歴史を遡れば、人命が軽く扱われていたことは、むしろ常識でした。時代物のドラマで、戦のシーンを見る度に、雇い兵や足軽でしょうか、あるいは下っ端の侍でしょうか、実に軽い命として描かれていることに、いつも気分が悪くなります。
 
太平洋戦争において日本国が降伏したのは、宣言上は1945年8月14日、法的には9月2日です。夏の終わりを感じるとき、かの日を思い起こすことは、やはり必要だろうと思われます。国としての意地なのか見栄なのか知りませんが、戦地へ行かない偉い人々が、いかに人命を軽く扱っていたか、それが横行していたか、私たちは思いを馳せざるを得ません。日本だけが悪いとは思いませんが、「国体」のために、日本国民を護るなどという美しい言葉によって、日本国民の命を軽く扱っていたことは、否定できないのではないでしょうか。如何にそれが国体を護るためである、などと言うにしても。
 
そのとき、美しい言葉や美談によって、人の心を死へと誘っていたのだと思います。言葉は人を生かしもするが、殺しもするのです。
 
しかしまた、聖書が書かれていたようなもっと古代になると、ますます命は軽く扱われるようにも見えます。決して無法社会ではなかったはずなのですが、現代よりも、身分の低い人々の命は簡単に奪われてしまうものだったでしょう。旧約聖書の記事を見ても、そう思います。
 
そうしたことを知ったのは、たぶん手塚治虫の『火の鳥』でした。紹介し始めると、何時間でも話し続けられますが、ともかく私の世界観の形成のためには、とても大きな存在でした。当時家の近かった親戚の家に、その単行本がありました。行く度に読みました。何度も読みました。覚えるほどに読みました。後に自分で文庫版で揃えましたが、印象的なところはかなり、いまでも記憶していたことが分かりました。
 
決して長い人生ではなかった手塚治虫の、それでもライフワークとも呼ばれた『火の鳥』のテーマは、「命」と言ってよいでしょう。火の鳥は、時がくると身を焼いてまた若い姿に蘇ります。永遠の命を象徴しています。地球の誕生から滅亡、また復興などをすべて知っています。人の命をその体内についに取り込むようなこともしていました。むしろ、火の鳥の一部として、人は命を与えられるかのような描き方がされていたとも言えます。このとき、その命の在処は「コスモゾーン」と呼ばれます。それは、古来の宗教思想にも見られるもので、手塚治虫の見識の広さをも窺い知る事ができます。
 
物語の中では、度々平気で人の命が奪われます。残酷にも切り裂かれる人々が描かれ、権力の前に簡単に殺される人々がそこにありました。簡単に映像化できない理由のひとつがそこにあったかもしれません。酷い殺人があたりまえのものとして描かれる。でも、命を描くためには、どうしてもそのように描かなければならなかった、ということも理解できます。手塚治虫は些か哲学的・宗教的な眼差しを向けてそれを描いたと言えるでしょうが、それを社会的な問題として訴えた漫画界の旗手として、他方に白土三平がいた、と言えるかもしれません。
 
◆死の陰の谷
 
お喋りが過ぎます。聖書からはまだ何もお話しできていません。聖書の救いや力を、皆さんは求めているはずです。そのために神を礼拝するこの場です。その通り、私の与太話を期待しているわけではありません。ここは神の言葉を取り次ぐべき場です。
 
「死」は文化により、事態により、いろいろに考えられ、語られます。聖書も、「死」を様々な角度から取り上げます。そもそも「命」は神が与えたものですから、それに対する「死」についても当然言及しなければなりません。聖書からそれを満遍なく取り出すことは、短い時間では不可能です。まして、その研究発表の場ではありません。ここでお開きするのは、ほんの一部です。詩編の中でも最も有名といわれる詩、第23編を入口と致します。神への信頼を謳うこの詩の中に、ほんの一瞬、「死」が顔を出します。
 
4:たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。
 
この詩は、もちろんここが一番知られているとは言えません。冒頭の「主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない」でも十分です。ダビデの詩だとされていますが、元来羊飼いだったダビデが、逆に羊の立場に身を置き、自分を導いて守ってくれる主なる神を想定しているようなものです。
 
羊は弱い動物です。攻撃されることばかりで、自ら何ものかを攻撃することはありません。獰猛な肉食動物から身を守ることが、即ち生きることとなります。聖書ではしばしばそれを「狼」で代表していますが、羊飼いが鞭や杖を手に狼を追い払えば、羊は安泰です。羊飼いが共にいれば、襲う者から守ってもらえます。災いを恐れる必要がないというのです。
 
ダビデが羊飼いだっただけのことで、この死は生まれはしなかったことでしょう。ダビデは、自分を雇ったサウル王に妬まれ、命を何度狙われたか知れません。執拗に追われ、危ない橋を渡りました。が、ダビデからはサウルを一度たりとも攻撃したことはありません。主が油を注いだ方に手を掛けてはならない、と戒めていたからです。
 
また、ダビデは自分の息子の反逆で、自分が王位を追われることもありました。都を出て彷徨うような目にも遭い、一般人に石を投げられることもありました。正に死の陰の谷を歩かされたのかもしれません。「たとえ死の陰の谷を歩むとも」と詩に告げますが、「たとえ」が仮の話であるようには、私には聞こえません。
 
他方、この「死の陰の谷」には、別の思いを読み込むことも可能です。それは、神の恵みから見放されることの象徴だというのです。神との関係を断たれること、これほどダビデにとり辛いことはありません。肉体が死ぬよりも辛いことだとダビデは考えています。しかしそう理解すると、「たとえ死の陰の谷を歩むとも」が不自然に聞こえます。「いま私は神との関係が断たれたようになっているかもしれないが」、災いはきっと来ない。主が共におられるからだ――こんなふうに受け取ってみると、次の「私を苦しめる者の前で」というネガティブな情況との対比も分かるような気がしてきます。
 
とにかく詩人には、どこにいても何をしていても主が共にいるという信頼がありましたから、「恵みと慈しみが私を追う」と顔を上げて歩むことができました。主が共にいるということは、なんと心強いことなのでしょうか。
 
◆イエスの死
 
「主が共にいる」というときの「主」は、もちろん神のことです。聖書では、神の名をむやみに口にしないことになっていますから、名前の代わりに「主」と言うことがあります。奴隷である人間に対して「主人」だということです。この「主」は神のことですが、キリスト教会では、「主イエス」という呼び方をします。「イエス・キリストが主である」と告白することが、教会に加わる最重要条件でした。
 
主イエスは、どのような方だったでしょうか。また、死の陰の谷を歩いたのでしょうか。
 
いえ、歩いたどころの騒ぎではありません。無惨に殺されたのです。神の子でありながら、人として死を味わわれたのです。このイエスを殺したのは当時のユダヤ人指導者たちや群衆、また直接的にはローマ帝国の役人たちだったのでしょうが、いまここにいる私自身が殺したのだ、という意識をもつことが求められている、と私は思っています。それが私の信仰です。私がイエスを十字架につけた、という前提なくして、私の救いはないのです。ただ、今日はそこを掘り下げることはしないことにします。
 
私たち人間は、恐らくいずれ死ぬことでしょう。その死を、イエスは先駆けて経験していることになります。死は恐怖であり、命を失うことであり、敗北であり、絶望であるかのようにも見えます。しかし、聖書に基づくならば、そうはなりません。ただの諦めで迎えるべきものだともされません。仏教の祖も死にました。あらゆる宗教の教師が、いま生きてはいません。しかし、イエスだけが、いまも生きている、という信仰の中に私はいます。イエスはいまも生きています。イエスは復活したからです。
 
この復活なしには、イエスの死を語ることもできません。イエスの死は、次に復活があるからこそ、意味をなします。単に犠牲になって死にました、で終わりではないのです。可哀想だったね、だけで済むものではないのです。ただ、そう感じる心というものは、まずは大切なものだと私は思います。
 
◆イエスの復活
 
母が病院通いなどしているところを見た記憶がずっとありませんでした。が、年齢を重ねるとそれも致し方ありません。先に申しましたように、母は禅寺の娘です。般若心経を愛していました。キリスト教などとんでもないという気持ちだったかもしれませんが、私は福岡から離れた京都で洗礼を受け、結婚式も挙げたのでした。
 
まだ比較的軽い病気で、母が入院したときのことです。私と二人だけのとき、イエス・キリストの話を私がしたことがありました。母は、十字架について、「どんなに痛かっただろうねぇ」と言いました。その言葉だけで、私はそのとき嬉しく思いました。
 
何度目かの入院は、もう余命を宣告されてからのこととなりました。父が医師から、自宅で看取るかホスピスに入るかの選択を問われた、ということを、私に相談しました。私はホスピスだろうと答えましたが、どうやら父は最初からそう考えていたようでした。キリスト教のホスピスです。母本人は多少認知的な問題を抱えていましたから、本人の意志とまでは言えないかもしれませんが、ホスピスの良さは理解できたかもしれない、とは思います。
 
面会時間は自由です。行ける時間帯を見つけて車を走らせました。後に妻の父が倒れたときには、京都まではなかなか行けないので、妻は気の毒でした。九州へ連れてきて、申し訳ないという思いで一杯でした。
 
午後からは仕事に出るなどします。面会時間は限られています。時には母は眠っているばかりでした。私と二人だけのとき、私は聖書の言葉を朗読していました。母の意識があるのかないのか、目覚めているのかいないのか、お構いなしでした。特に幾度も繰り返したのは、ヨハネによる福音書11章でした。
 
25:イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。
26:生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 
日曜日の午後も訪ね、そして後ろ髪を引かれる思いで病室を出たその日の深夜、母はひとりで世を去りました。諸事情があって、私が一番にそこに駆けつけることとなりました。ホスピスには礼拝堂があります。看護師さんたちに母を任せた後、そこで私は独り礼拝を献げていました。
 
翌日、母を送り出すとき、関係した医療スタッフと共に、病室で礼拝が行われました。「いつくしみ深き」で送り出されるとは、母はきっと予想はしていなかったことでしょう。
 
見舞いに行くとき、あるいはその場で静かに過ごすとき、私は折り紙をよく作っていました。棺には、最後に4匹のカエルに伴ってもらいました。お分かりでしょうか。「四カエル」ですから、幾度も母に聞いてもらっていた「よみがえる」というイエスの言葉を、形にしたものでした。
 
◆信じるか
 
25:イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。
26:生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 
イエスのストレートな言葉が印象的な、ヨハネによる福音書の11章です。ただの教養として聖書を利用したり、議論の肴に聖書を扱おうとしたりする方が、世間にはいます。その方は、この礼拝の場にいてくださる必要はありません。それよりも、聖書を通じて、自分の生き方が、そして自分の行く末がどうなるのか、そこに戦き、また切に祈る方が、共に祈ってくださればいいと考えています。私はイエスの言葉を神の言葉として受け取っています。その神の言葉をいま告げています。私の思想ではありません。イエスの言葉です。
 
黙示録では、「第二の死」などという言葉があり、神学的な議論がいろいろあります。「第二」というからには「第一」もあるのであって、ただ「死」と言ったときには、その言葉には複数の意味がこめられていることが明らかです。「死んでも生きる」というときの「死」は、このからだの死を意味しているのでしょう。からだは死んでも「生きる」のだと言っています。いまここでイエスを信じる人は、からだは死を迎えることになるのであるにしても、別の意味での破滅的な「死」を経験することがない、と言っていることになります。
 
4:たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。
 
詩編23編を抱きしめたいと思います。たとえからだの死を避けられないのであるにしても、主は共におられるとの信仰がここにありました。主は共におられます。十字架の苦しみを知るイエスが、あなたと共におられます。あなたの苦しみを、悲しみを、みなご存じである方が、共にいます。イエスは復活したからです。死んだけれども、死んでいないからです。生きているからです。
 
いまこのときにも、死への坂道をゆっくりと転がるように歩いている方がいます。どこまで行けるのか、人間としては計算ができませんし、そもそも誰もがその道を歩いているのですが、どうにもからだがそちらへの道をいま急いでいるという方がいます。
 
でも、その人も、イエスが共にいるということを知っているならば、誰が何と言おうと、イエスは共にいてくださるのです。いま生きているときに信じるのですから、イエスの言葉の通りに、決して命が無に帰したり、神の審きに苦しんだりすることはありません。その意味で、決して死ぬことはないのです。
 
25:イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。
26:生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 
イエスは、ただ教えを垂れただけではありませんでした。最後は、あなたに質問をしています。あなたは、それに応える必要があります。イエスは尋ねています。
 
このことを信じるか。(ヨハネ11:26)



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