【メッセージ】苦しみと災いの向こうに

2023年7月30日

(詩編71:17-21, ユダ20-21)

あなたは多くの苦しみと災いを
私に思い知らせましたが
再び命を与えてくださいます。
地の深い淵から再び引き上げてくださいます。(詩編71:20)
 
◆信仰   信じれば、幸せになる。「宗教」というものに備わる、最大公約数的な看板です。それぞれの「宗教」の思惑によって、含む意味が異なると思いますので、安易にひょいひょいと乗せられてはいけません。「信じる」とはどういうことか、「幸せ」とは何なのか、その定義が、ひと様々なのです。
 
まず、「信じる」即ち「信仰」という言葉から見ましょう。宗教団体によっては、「指導者の言うことに無条件で従え」という意味で使っていることがあります。指導者というのは特定の人間であることもあるし、その教祖の教えであることもあるでしょう。それに従って行動しなければ「不信仰」と罵られるのです。そして遂には、おまえにはもう幸せのチャンスはない、という脅しとなってしまいます。
 
では「信仰」とは何か。それをここでひとつに定めることは控えましょう。というより、できません。してはいけません。一人ひとりの信仰者には、それぞれの「信仰」があるでしょう。それがどんなものでもよいかどうかは別として、ひとにより様々な「信仰」があるのは確かです。
 
「信仰」というと、どうしても「仰ぐ」という、下から上を見る意味が加わります。人が神を信仰するということです。けれども聖書には、神が人間を信仰する、というような言い方に見えるところがあります。これは、原語の「信仰」という語に、必ずしも日本語でいう「信仰」だけではない意味が伴うからです。つまり「信頼」とか「真実」とかいう意味があるのです。私個人は、その言葉を「まこと」と呼ぶようにすると、雰囲気は掴めるかもしれない、と思っています。
 
もうひとつ、神を「信じる」という言葉で、気をつけなければならない点があります。それは、「神を信じますか?」という質問を、日本人はしばしば「神の存在を信じるか」と受け取ってしまうということです。聖書はそんな疑問の挟まる余地はありません。神の存在は大前提です。「神を信頼するか」「神にまことを覚えるか」のような意味でしかないのです。
 
恐らく古代以来日本でも、神の存在自体を問うたようなことはなかったでしょう。そもそも神があるか・ないかというところを問い始めたところに、人類の意識の問題がある、というように見る眼差しも必要であろうかと思います。
 
◆幸せ・幸い
 
次に「幸せ」について考えましょう。「幸い」とか「幸福」とか呼んでもよいとします。「幸福とは何か」という問題は、人間がものを考え始めてから、ずっとあるのではないかと思います。無数の哲学的な思想がそこにあり、これもまたここで一つに定めるようなことはできません。但し、聖書は聖書で「幸せ」について触れていますので、少し見てみることにします。
 
詩編はその冒頭から「幸い」な人について告げており、最後は「ハレルヤ」で結ばれます。
 
幸いな者/悪しき者の謀に歩まず/罪人の道に立たず/嘲る者の座に着かない人。(詩編1:1)
 
息あるものはこぞって主を賛美せよ。/ハレルヤ。(詩編150:6)
 
申命記では、主の教えに従うことが「幸せ」であり、その反対に「呪い」が待ち受けていることを伝えています。
 
見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。(申命記11:26)
 
マタイによる福音書の山上の説教では、有名な八つの幸いを挙げます。ルカにはそれの縮小版がありますが、こちらには幸いの反対のケースも並べていました。  
20:さて、イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた。/「貧しい人々は、幸いである/神の国はあなたがたのものである。
21:今飢えている人々は、幸いである/あなたがたは満たされる。/今泣いている人々は、幸いである/あなたがたは笑うようになる。
22:人々があなたがたを憎むとき、また、人の子のためにあなたがたを排斥し、罵り、その名を悪しきものとして捨て去るとき、あなたがたは幸いである。
23:その日には、喜び躍りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24:しかし、富んでいる人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたはもう慰めを受けている。
25:今食べ飽きている人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたは飢えるようになる。/今笑っている人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26:皆の人に褒められるとき、あなたがたに災いあれ。彼らの先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ6:20-26)
 
これらを一意的に説明してしまうのではなく、私たちが折に触れこれらに目を向け、考え、また受け止めてゆくことが肝要ではないかと思います。
 
「幸いな者」と、詩編は何度も繰り返します(26節)。箴言にもあります(6節)。面白いのは、新共同訳でエレミヤ書や哀歌に「幸い」とあったのが、聖書協会共同訳では、たとえば「恵み深い」というような語によって、だいぶ塗りかえられているということです。ここでは新共同訳から引用します。哀歌3章です。
 
25:主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。
26:主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
27:若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
 
哀歌は、伝統的には預言者エレミヤの手によるものと考えられていました。エルサレムが敵に荒らされ非常に悲惨な情況にある様子を描いたものです。絶望的なその中にも、なお「幸い」を見る預言者は、決して現実を見ないのではなく、現実の彼方に何かを見ているのではないかと思います。
 
38:災いも、幸いも/いと高き神の命令によるものではないか。
 
新約聖書の福音書はどうか、見てみました。マタイとルカには多く見られますが、ヨハネには何故か少ないのが印象的でした。
 
よくよく言っておく。僕は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない。
このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。(ヨハネ13:16-17)  
イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)
 
◆不幸(水害)
 
もう一つ、福音書があります。四つの福音書のうちに、最初に書かれたものだと言われています。他の福音書は、マルコを知っており、それをまた別の観点からアレンジしたのだ、と研究者たちはほぼ口を揃えて言っています。つまり、マルコによる福音書は、「福音書」という世界初の画期的な文学形式を生み出したその作品だ、というわけです。
 
このマルコには、「幸い」という言葉が見当たりません。「幸せ」や「幸福」も含めても同様です。これはどうしたことでしょう。但し、マルコにも「不幸」はあります。これも聖書協会共同訳では「災い」と訳されているので、これも新共同訳から引用します。
 
13:17 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
 
14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
 
ひとが不幸を覚えるときは、どういうときでしょうか。「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭は、それぞれ異なる理由で不幸である」という『アンナ・カレーニナ』の有名な言葉を引くまでもなく、不幸の理由や様相は実に様々です。自分が失敗して招いたことはどうでしょう。自分の責任と感じるので、それを不幸とは普通思わないでしょう。自分が蒔いた種ならば、それを不運とも不幸とも思わないはずです。もちろん、自分が起こしたことで不幸になった、と考えていけないことはありませんが、多分に不幸と私たちが思うとき、それは自分に身の覚えのないこと、他人のせいであったり、トラブルや災難に基づいたりするときではないでしょうか。
 
必ずしも自分のせいではないが、苦難を強いられるとき、不運とか不幸とか思うのだとします。不運は人について専ら言うのですが、不幸は人についても出来事についても形容するような木がします。そして不幸な出来事により、また不幸だと自分を見なすとき、人は「苦しみ」を覚えます。
 
日本は自然災害が多い国のひとつです。いろいろな呼び方がされるようになりましたが、梅雨から梅雨明け頃には、集中豪雨と呼ばれる災害が日本を襲います。その頃から秋には台風。いずれも水害を招きます。大きな災害の報道が時折ありますが、毎年どこかでもっと起こっていることです。今年も各地に多大な被害が出ました。気候変動の影響があるのかもしれません。これだけ被害が報道されて何かしら対策が練られてもなお、毎年毎年起こるということは、人間が努力しても対処の仕様がないかのようです。
 
他人事ではありません。私は福岡で生まれましたが、水害に見舞われたことがあります。尤も、私の記憶の中にはありません。両親はそれに懲りて、以後新しい家に移るときには、より高い場所を選びました。生活費に余裕はありませんでしたが、建築業の会社に父は勤めておりましたから、会社関係で住まいはなんとかなったようです。その次の引越しでは、ついにずいぶん山の上のような場所になりました。崖崩れも含めて、水害に見舞われる心配はまずないような土地でなりよりだと思います。
 
◆不幸(地震)
 
ところで、地震という災害は、水害のような予想も予測もつかず、全く突然に襲ってきます。そして想像を絶する被害をもたらします。福岡は元々地震の少ない地でしたから、私が京都で体験した阪神淡路大震災は強烈でした。京都で結婚し、二人の幼い子どもがいたのですが、朝方、カタカタ……という初期微動で私は目覚めました。くるぞ、と構えて、寝ていた家族を見張っていました。何秒後だったか、ドーンと下から突き上げるような強い揺れがあり、体が跳び上がりました。あの恐怖は、いまなお体が覚えています。
 
本棚の本が降ってきた程度で済んで幸運でした。テレビを少し高いところに置いていましたから、それが落ちてきたら、命がないところでした。子どもたちを庇い、起き上がった妻から目を離しませんでしたが、直接大きな被害はなかったと言えます。一旦落ち着いてテレビを点けると、神戸からのみ震度などの情報が入らない速報が流れており、神戸支局のNHK記者からの電話が、現場の緊迫感を伝えていました。
 
夜が明けると、炎に包まれた街の姿が映し出されました。大好きだった神戸の街は、見るも無惨な姿を呈していました。当時はまだインターネットが普及していない時代です。何日間か、各テレビ局はその有様を放送し続けました。公共広告機構のほかのCMが入るようになるまでに、数日かかったような気がします。
 
私は、京都のYMCAの組織の一端にいました。仲間は神戸に救援に出かけました。私は仕事の現場を守らねばならなかったために、それはできませんでした。でも、子育てをしていたこともあり、赤ちゃんのオムツの足しにでもなれば、という思いの募金はさせてもらいました。京都の教会の牧師も、何度か神戸方面に出かけました。そのレポートが小さな本になっており、後に私も手に入れました。当時は鉄道も止まり、車は渋滞するし救援の妨げになりますから、バイクなどを使っていたと思います。救援者は瓦礫や火災の跡を横目に、生き残った人たちのために労していました。
 
震災から2か月後、東京で地下鉄サリン事件が起こりました。被災地の救援の報道が、すっかり吹っ飛びました。東京のメディアはサリン事件に完全にシフトしました。宗教団体の身勝手さに私は憤りましたが、そもそも震災の数日後に関東で発行された週刊誌が、大地震がもし東京で起きたらどうなるか、という記事をウリにしていたことには、相当腹が立っていました。
 
東日本大震災は、その16年後に起きました。福岡にいた私からはずいぶん遠いので、殆ど見守り祈ることしかできませんでした。阪神のときと違い、津波というものが地区を一呑みすることの恐ろしさを覚えました。揺れた後に、大きな津波が予想される中、海岸近くを走る車が報道の画面に映し出されるのを見て、逃げてくれと私は空しく叫んでいました。
 
◆神義論でなく
 
ここまで、「苦しみ」とか「災い」とか言ってきましたが、それを簡単な言葉だとして片付けてしまいたくはないと思います。安穏と暮らしている私には、それについて1本の毛ほども知ることがありません。2005年の福岡西方沖地震についても、揺れには揺れましたが、わずかでも地震対策を施していたので被害を免れました。たとえば観音開きの食器棚を避けていたわけです。阪神淡路大震災を経験した者ならではのことですが、当時福岡では地震保険に入っている人が珍しい中、我が家はちゃんと入っていました。殆ど影響のないマンションのわずかなタイルの剥がれのために、子どもの学資が助かったのは、ありがたく戴きました。
 
いえ、そんな自分の得の話がしたかったわけではありません。神は、どうしてこういう苦しみや災いを人にもたらすのだろう、そういう疑問が、古来神を見上げる人間には根本的に問いとしてありました。神がいるのなら、悪い人を罰するのならともかく、誰にもかれにも不幸をもたらすような災難を与えるのはおかしくないか、と思う人がいるわけです。
 
それへの答えも、宗教者たちは考えてきました。中には、私が賛同できない考えもあります。災害が起こると、これは神罰だと言い、神を信じないから人間はこんな目に遭う、とふれまわるタイプの団体が現れることです。残念ながら震災の度に、熱心なキリスト教団体から、そういう声が出ているのを聞きました。
 
とはいえ、信仰の思いをとやかく非難するつもりはありません。ただ、賛同できないだけです。そして聖書には、そのようにも取れるようなルカによる福音書13章の記事があるのも確かです。
 
1:ちょうどその時、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを、イエスに告げる者たちがあった。
2:イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか。
3:決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4:また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのすべての人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。 5:決してそうではない。あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
 
ただ、読み違えてはならないことがあります。「決してそうではない」とイエスが言っている点です。悔い改めが必要だ、ということが筋なのであって、災難に遭ったとが特別に罪深いのだと言いたいわけではない、そう私は受け止めています。
 
あの人はどうですか。この人はどうなりますか。そんなことを神学だと言って議論している暇があったら、自分自身と神との関係を問い直しているほうがいい、と思います。神の仕業を採点するような審査員になったつもりで、舞台の外に逃れたふりをするのではなく、自分自身が神の前にどうなのか、をまず根柢に考えていきたいと思うのです。
 
◆慰め
 
詩編71編をも、今日はお引きしました。この詩人は、若い時から神に出会っています。そういう方は、礼拝にいらしている皆さんの中にもたくさんいることだろうと思います。まだそうではなく、これから出会う人もいるでしょう。いえ、「若い時から」と私が申しましたので、いやいや私は歳を重ねてから神に出会ったのだ、という人もいることだろうと思います。この詩人の生涯をそのまま辿らねばならない必要はないけれども、私たちはその言葉から、心に触れるところを感じ取ろうと思います。  
17:神よ、若い時からあなたが教えてくださったので/今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。
18:神よ、私が老いて白髪になっても/どうか捨て去らないでください/あなたの腕の業を、力強い業を/来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。
19:神よ、あなたの正義は高い天にまで至ります。/あなたは大いなる業を行われました。/神よ、誰があなたに並びえましょう。
 
神への信頼があるのか。私たちは自分の信仰と向き合う必要があるでしょう。神と自分とは、切れない絆で結ばれているのか、確認しましょう。強い関係性を自覚しているのか、深く問い直しましょう。続く節をみると、これはどうやら不幸に目に詩人が遭ったらしいことが分かります。しかし、その不幸がどうして生じたか、そのことには考えを伸ばしません。神がどうして不幸をもたらすのか、というような疑問を呈することはありません。ただ神は、自分に思い知らせたのです。苦しみと災いとを私に思い知らせたのです。それは、そこから再び命を与えるためでした。再び深い淵からひきうげてくださるためでした。詩人は詠います。
 
20:あなたは多くの苦しみと災いを/私に思い知らせましたが/再び命を与えてくださいます。/地の深い淵から再び引き上げてくださいます。
21:私を大いなるものとし/慰めを与えてくださいます。
 
再び命が与えられるのです。復活させられるのです。イエスと同じように、復活の命が与えられるのです。
 
◆セラピスト
 
先日も、中井久夫先生についてご紹介致しました。精神科医として、セラピーについての新たな視点をもたらした方です。人の心を支配する「トラウマ」という問題を重視し、特に阪神淡路大震災のときに大きな働きをしました。
 
無名と言えば無名でしたが、ユニークな論文が知られていました。人の心へのアプローチが、明らかに違ったのです。名古屋の大学病院で空いたポストに、医師たちはぜひと中井先生を迎え入れました。医師たちは、中井先生の治療の様子を見学します(『セラピスト』最相葉月)。
 
訪れた或る患者は、何も喋りません。普通、医師のほうが何か問いかけて、患者に話をするように促したくなるところです。しかし中井先生は何も言いません。10分過ぎても、ただ沈黙が流れるだけです。ちょっとした促しもしません。患者が自ら自分を語り始めるのを、ただじっと待っているのです。
 
何十分経ったか、ついに患者が口を開きます。医師はただそれを聞きます。コメントをするわけでもないし、アドバイをするようなつもりもありません。何の説明もせず、ただ聞きます。そして診療が終わります。
 
私に対して、専門的な見解を求めないでください。診療がすべてこのようであるというわけでもありません。ただ、ひとつあったその事実を基に、教えられることがあったと思ったのです。患者に問うのではなく、ただ待つ。ようやく口を開けば、「そうだね」というくらいに返答するだけ。けれどもやがて、なかなか心が開けないで苦しんでいる患者が、少しずつ心を開くことができるようになってゆく。もし話ができるようになれば、次第に対話のようなものも成り立ちます。本当に苦しいのは、最初に口を開くことができないときなのでしょう。
 
精神科を尋ねる人だけがそうなのでしょうか。およそ世にあって苦しみを覚える人が、やはり自分の苦しみをどう表してよいかは分からないのではないかと推察します。クリスチャンだったら、そうした苦しみが、きっといつか益となる、という聖書の言葉を知っているかもしれません。だからそのように、苦しんでいる人に慰めを与える――などという無神経なことをする人は、まさかいないでしょう。当事者は、まさにいま苦しいのです。その苦しみから逃れるためには、死んだほうがましだとさえ思うほどに、苦しいのです。高みに立った者が、神学や教義をかざして、苦しみとはこういうものだよ、こうすれば解決だよ、などと話すのは、どう考えても間違っています。
 
ただ、イエス・キリストは、分かっていると私は信じています。苦しんでいる人も辛いですが、イエス・キリストもまた苦しみを味わいました。もし人の苦しみを心底分かってくれる存在があるとすれば、イエス・キリストのほかにはないでしょう。孤独と無理解と迫害の中で、いわば濡れ衣のために、裸にされて十字架の上で見せしめにされ、死のうにも死ねないような苦しみを味わわされるという仕方で、世にも残酷な殺され方をした、それがイエス・キリストでした。
 
神のひとつの称号として、英語で「カウンセラー」と呼ぶことがあります。聖霊のことを呼ぶことが多いかもしれませんが、キリスト教では聖霊も神のひとつのスタイルです。神はカウンセラーでもあってくださいます。完全なセラピストとして、神はじっと待っています。あなたが、口を開くのを待っています。あなたが祈るのを、待っている方がいるのです。
 
◆メッセージできること
 
ところでこれもお伝えしたことがありますが、中井久夫先生は、晩年カトリックの洗礼を受けています。私は実は最近そのことを知りました。深い思うところがあったのでしょうが、心の中での信仰は何らかの形で、ずっとあったのではないかと想像しています。患者と向き合うときにも、祈るような思いで、その心が開かれるのを待っていたのではないでしょうか。
 
アメリカの対イラク戦争で目を惹きましたが、今世紀の戦争は、映像と共に伝えられます。下手をするとゲームの一場面のように、しかし現実に破壊と殺戮がそこにあり、ライブでも映し出され、報道では繰り返し目に飛び込ませるようにします。あの戦争の情景は、今日考えた不幸や苦しみ、災いというものをすべて引き受けたようなものに思えます。聖書時代にいう「戦争」とは、内実が全く違ってきてしまっています。同じ言葉を当てはめることには、もはや無理があります。
 
戦争は、自然災害とは違います。自然災害は、誰かを恨むこともできません。もちろん、住居環境その他、人災と呼ぶべきケースもありますが、基本的に自然の起こす災害です。だから宗教に疑念をもつとき、神はどうして自然災害を起こすのか、と問いたくもなるのだと思います。戦争は、明確に人が起こすものです。人だけが、それの原因です。戦争に対しては、「国」の名を掲げて、人々を逃げられなくなるようにさえする者があります。ふだんは自由だとか、政府が悪いとか安全なところから批判していたような口をもつ人々が、一斉に、戦う集団を作り上げます。
 
戦地や内戦の地から逃れてきた人がいます。それを受け容れない政治事情もあります。すぐにまた、そうした政策を批判する正義の人々がいますが、私たちの生活圏に、素性の分からないような外国人がうろうろすることをよしとする人が、その中にどのくらいいるか分かりません。難しい事情が絡んできます。そうした方々のために、何らかの形で少しでも、と働く方々には、ただただ頭が下がります。私はなにも偉そうなことを言う資格などありません。
 
礼拝説教は、不幸について論じるのが目的ではありません。災害を振り返ることで何かを語った気になることも控えます。いま苦しみの中にある人がいます。どん底で耐えられない思いをしていながら、礼拝の中で語られる言葉の中に、救いを受けたい、と必死の思いで説教を聞いている人がいます。八方ふさがりで明日からどう生きていこうかと困り果てている人がいます。自分の心がどうしても閉ざされているのを覚え、絶望しか見えない人がいます。今日の、詩編の言葉は、ひとつの道として立ち現れてくるでしょうか。

20:あなたは多くの苦しみと災いを/私に思い知らせましたが/再び命を与えてくださいます。/地の深い淵から再び引き上げてくださいます。

どうか、慰めの言葉が見つかりますように、と願わざるを得ません。進むべき方向から光が射してくるように、と祈るばかりです。助けがきますように、と心から思います。また、このメッセージが手紙だとして、今日は新約聖書・ユダの手紙の言葉をお伝えします。それが神からの力ある命の言葉として、あなたに伝わるようなことが起こればいいのに、と願いつつ、お読みします。
 
20:しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈りなさい。
21:神の愛の内に自らを保ち、永遠の命を目指して、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。



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