聖書をどう経験するか

2023年7月30日

戦時中だか、戦争の気配漂う時代だか、かつて「日本的聖書訳」を計画していたことがあったという。天皇制を肯定するような形で訳そうとしたのだろうか。計画の内容までは知らないが、とにかく日本の実情に合うような文面に訳し直そうとしたらしい。
 
それに対して、敢然と反対の声を挙げた人がいた。いや、いまなら挙げるだろう、などと言うことなかれ。当時は、その反対者は、キリスト者の多くが非国民呼ばわりしたのだそうである。結局そのような訳は実行されなかったらしいが、確かに反対するのは勇気が必要だったことだろう。
 
聖書の訳を、時勢に合わせて変更する、というのはけしからん。そういう論理で反対したのではないかと思うが、なかなか難しい論理である。「時勢」とは異なるが、確かに研究の進展や時代の考え方によって、聖書の訳はそれなりに変化してきたのであり、またそれが当然だとも考えられてきたのは事実だからである。
 
聖書の文面を操作するのは、確かにいかにも恣意的であり、露骨であるかもしれない。しかし、聖書の理解、あるいは解釈については、時代や文化により、いろいろ変化がある。日本にキリスト教が渡ってきたのは西洋からであり、西洋文化としての聖書や神学を学ぶことが、キリスト教を知るということである、という考え方が当たり前とされてきた。
 
そのために、キリスト教は西洋の宗教だ、という呼ばれ方がよくなされていたともいう。だが当然指摘されるように、キリスト教の発祥はアジアである。ユダヤ教もイスラム教も、旧約聖書を土台とする一神教の類いは、すべて西アジアで生まれている。だから、空想のイエス像でも、どう見ても白人の姿で描くというのは、恐らく誤っているはずだ。
 
そういう根本的な部分を大きく扱わなくても、キリスト教の歴史、その神学なるものの成立は、もうひとつの根であるヘレニズム文化を混ぜながらなされてきたことは、否定しようがないだろう。いわば、聖書は、西洋文化のギアに掛けられてこれまで回転してきたことになる。だが、違うギアがあってもよいのではないか。いまも、世界各地には、独自のキリスト教理解がある場合があり、西洋の色に染まらず、それぞれの文化や環境の中でキリストを拝している。その神学や理論は、西洋神学とは明らかに雰囲気が異なるともいう。それを、聖書を曲げた、と非難することができるのは、いったいどういう立場の人間であるのか、分からない。
 
仏教の方のお話は、やはり日本人にとり、しっくりくることがある。肌に合うとでも言うべきだろうか。よく思うのは、仏教の説法というのか、「ありがたいお話」なるものは、仏教の経典を引用して、それを基に説くというふうではないことが多い、ということである。聖書系統だと、聖書を掲げ、それを解説する、あるいはそこから学ぶ、という形であることが多い。聖書の教えを誰かに話すとしても、聖書の言葉を直接ぶつけるのが普通である。しかし仏教のお話は、何の経典に基づいているなどということにはふだんこだわらず、人生の真理を語る、という傾向が強いような気がする。
 
聞いていて、思わず「なるほど」とか「確かに」とか肯いてしまうのである。だからまた「ありがたいお話」なのだろう。人生の「知恵」として、すばらしいものがあることは確かである。最近、ツイートで話題になっているのは、僧侶がそうした「知恵」を短い言葉で掲げて、人々を唸らせているものである。なるほど、寺院の門前には、そのような「知恵」を書で掲げた書が昔からしばしばある。そのような書ばかりを集めた本すらできていた。それらは、日本人の心を、きっとくすぐるのである。また、なるほどと唸らせるのである。いまだに教会の礼拝の題が、墨と筆で書かれている旧いスタイルのものがいいように考えられている場合があるの、もしかするとこの寺院の掲示板と関係しているのであろうか。
 
ただ、私はイエス・キリストに出会ってしまった。出会った事実は否定できないし、その経験には逆らうことができない。
 
聖書は基本的に、異邦人ではなくユダヤ文化の中にいる人が語った言葉が集められている。預言者にしてもそうである。たとえばルカは、ユダヤ人の外にいる文化の人ではないか、などと言われており、新約聖書には異邦人伝道に相応しい書き手が現れている、というふうにも言われる。
 
聖書はまた、旧いオリエント文化が影響を与えている、とも言われる。ペルシア文化のにおいがする場合もあるというし、創造神話としても他に類するものが見出されている。そうした中で聖書が編まれるとき、たとえば「雅歌」などは最後まですったもんだがあったともいう。これが聖書なのか、と。それは若い男女の戯れがたっぷりと描かれている。もちろん神がどうとかいう書かれ方がなされているわけではない。しかし、若い男女の恋い焦がれる思い、相手を慕うその純朴な思いは、後のキリスト教が毛嫌いすることがあったように、肉欲でしかないようなものではないだろう。相手を大切に思うこと、自分のことはどうでもいいから、という気持ちさえそこにはある場合もある。その交わりが、神と人との間であってはならないとは、私は思わない。神に恋したという少女もいたが、「雅歌」も文化的な読み取り次第では、神とのひとつの関係の姿であることを私は好ましく思っている。
 
我々日本人には日本的なキリスト教があっていい、そのような結論の出し方はしたくない。自分を正当化するための方策であるように思われてならないからだ。だが、プロテスタントという形で、誰か他人の言いなりになって聖書をこのように読まねばならない、とされることから解放されたとしたなら、聖書という言葉が命となって生きてくるような読み方、捉え方というのが、否定される必要はないだろう、と思うのだ。それだからプロテスタント教会はまとまりがないので、と言われたらそれまでだが、西洋人の捉え方もそれはひとつのものとして認める一方、それだけがすべてではない、という一人ひとりの活かされ方を見るのも、楽しみではあるように思う。時にそれは危険な考え方となるかもしれないが、聖書はひとを「しあわせ」にするものであるなら、結構なことではないか、と言いたいのである。もちろん、簡単な解決があるのだ、などと言いたいわけではないのだけれども。



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