コロナ禍はまだ顧みる段階ではないが

2023年7月28日

命に関わる情報なので、迂闊に素人の発言に全幅の信頼を寄せることはご遠慮ください。しかし、本当かどうかご確認戴くことは歓迎したい。
 
2023年5月中旬から、新型コロナウィルス感染症の新規感染者数や死亡者数を発表しなくなった。それは、医療機関に、逐一所定の形式で毎日報告する義務を課さなくなったということである。感染に関して安全になった、ということを意味するものではない。
 
それから2カ月余り、「定点観測」という、従来とはかなり違った捉え方での数字を時折発表する程度だが、これにより、「もう感染の心配はない」とか「感染者はもう殆どいない」とかいうふうに読み替えているような心理が蔓延しているように、私には見える。
 
もちろん新型コロナウィルス感染症は、その感染力と、一定の致死者をもたらすという点で、甘く見ることはできない疫病である。だが、感染症としては、子どもに目立つけれども、様々なものが激しく拡大している。発熱外来は現在、医療崩壊寸前となっているところが少なくない。このことを、もう報道番組やニュースでは扱ってもらえなくなっている。
 
新型コロナウィルス感染症に絞ることにしよう。推計値ではあるが、新規感染者数は、4月頃の数字の10倍を超えてきている。第6波と呼ばれた2022年2月のピークを超えてなお急速な上昇傾向にある。原因としては、ワクチン効果に加えて、マスクをつけなくてもなんともないとう誤解を含め、衛生観念の喪失の影響が大きいと想像される。もちろん、それはただの推測である。
 
その推計値なるものは、モデルナ社がずっと出している。この一年半における推計値と実数との誤差は、推計値が少し多めに出ているときもあるが、概ね信用できる数値となっている。
 
5月以降の数字は、そのウェブサイトでの発表は、推計値だけとなっているが、緩やかな加速度傾向にあるように見える。しかも怖いのは、5月以降、陽性検査費用が個人負担となったために、医療機関を受診せず、自主的に保養に入るというケースが増えていることは確実であることだ。となると、推計値よりもさらに陽性者は実質的に多いということになる。さらに怖いのは、こうして緩くなった管理の下、ウィルスを保有していながら、街を出歩いている人が少なからずいることが予想されることである。
 
電車を利用している。マスクをしない人も多くなった。こちらはとりあえず防御しているので、特に目くじらを立てることはしないが、本を読む習慣であるために、大声で話をしたり、電車の中でドアの方を向かず変な方向を向いて立っていたりするような人に対して、迷惑な気持ちを懐くことはある。それでちらりとそちらを見ると、かなりの高確率で、マスクをしていない。
 
もちろん、電車内ではマスクを着けよう、という呼びかけはある。が、そもそも外してしまった人が、電車に乗るときだけマスクを着用するなどというお人好しにはなれるものではない。言いたいことは、マスクを着けないことそのものが悪いというのではなく、マスクを着けないという考えの持ち主が、他人の迷惑を顧みないようなことをする確率が高い、ということである。マスクの有無が問題なのではなく、そもそもの思いやりの欠如が、そういう形になって現れているような傾向があるように見える、ということなのである。
 
誤解のないように。すべての人の行為や有様を、画一的に判断しているのではない。ましてや、マスク警察の真似をしようとしているのでもない。別段、誰がマスクをしていようがいまいが、私は何も気にしていない。あくまでも、迷惑だなと思って見たら、マスクなしのことが非常に多いという経験を基に、これはその人自身の性質や気づきという問題に根があるのではないか、と推測しているだけである。マスクを着けていない人がすべてそうだ、などという捉え方などしているわけではない。ただ、何かしら或る根っこがあって、そのためにマスクを着けていないという現象が起こる場合がある可能性を、模索しているのである。
 
ネットでの発言から聞こえてくる声もある。まだマスクを着けているのか、と軽蔑するような発言をする人がいる。それだけならいいが、これまでしてきたことをやめられず、周りに合わせるばかりで自分では何も考えない哀れな奴らだ、というような言い方をする人もいる。それも、クリスチャンのようなハンドルネームを掲げているというので、少々驚く。
 
なんのことはない。政府の発表に尻尾を振って従っているのは誰なのか、私たちは自己認識が試されているということなのだろう。
 
それは教会単位でも考えねばならないことだった。緊急事態宣言が発令されたとき、教会は右往左往した。教会は高齢者が多いところでもあったし、感染させてはならないとの「愛」から、集まることを避けたという判断そのものを、責めることはできまい。韓国の教会でクラスターが出たことも、ひとつの戒めのようになったと言えよう。
 
だが、「不要不急」の外出は避けるように、という「自粛」命令(いったいそれはなんなのだろう)に対して、少なくない教会が「礼拝を中止します」と宣言していたのは確かである。
 
この頃、仏教界でも衝撃が走っていた。キリスト教会のように、毎週日曜日の集会ということを全信徒に向けて特別に義務化していない仏教の寺であっても、集まれないということに、大きな打撃を受けていた。特に心ある僧侶にとり、仏教の営みは「不要不急」だったのだ、という烙印を押されたような心持ちがして、苦しみを覚えていたことが、後に告白されている。
 
ではキリスト教会はどうだっただろう。礼拝が「不要不急」なのだろうか、という問いをチャレンジされて、苦しんだ牧師などもたくさんいただろう。だが、それを正面から問うような動きは、私には感じられなかった。「礼拝」は「不要不急」のものだから「中止」します、ということが、「愛」から当然のことだ、という意味だったのだろうか。
 
もうそろそろ、それを問い直してもよい時期ではないだろうか。戦争責任にしても、長い間なあなあにしてきた歴史があるキリスト教界であった。だから、まだまだこのことを問い直すには、四半世紀くらい経たなければ、やる気にならないのかもしれない。しかし、私のように、「礼拝は中止などはありえない」と最初から叫び続けていた者が、多数派であったようには見えなかった。
 
ワクチン接種がなく、対処法もよく知られていなかった当時のことだから、いまと同じ基準で見ることはできないが、非常事態宣言当時、新規感染者数は、いまの200分の1くらいのものだった。制度上「5類」に変えたことで、もうなんでもできる、というように尻尾を振って喜んでいる人々がいる背後で、後遺症に苦しみ、あるいは命の瀬戸際にいる人の声は、もはや数字としても世に知られなくなってしまった。その人たちのために、また他の疾病の異常な拡大に対処して過酷で危険な労働を強いられている医療従事者を、教会すら顧みなくなってしまっている。私の叫びが聞こえたのか、祈りのリストの片隅に、毎週ただのコピペとして「医療従事者のために」とだけ印刷するようになった教会もあるが、恐らくただの飾りでしかないだろうと推察する。
 
コロナ禍とは、身体的なものだけを蝕んだことを謂うのではないらしい。尤も、教会がどうとかいう程度のことで、これを見ているのも危険であろう。もういまや密な電車の中でも、平気で多くの人がマスクなどしていない。混雑の中では依然としてマスクは推奨されているはずなのだが、全く意に介していないようにすら見える。
 
いまマスクを外している人が増えている理由のひとつに、「みんなが外しているから」ということがあるように思えてきたからだ。自分だけがマスクを着けているのはダサい、とでもいうかのように、周りに合わせる様子が見てとれるのだ。自分がキャスティングボートを握っているなどとは思いもよらずに、周りの空気に合わせでいつの間にか、それまでと全然違う考えが大多数に変わっていくという、「みんな教」のおなじみの形が、ここにも現れている、と言ってもよいと私は捉えている。この性質が、世の中を全く逆方向へでも簡単に変える、怖い力となっていくのだ。人類は幾度もそのようなことをしてきたし、いまもしているし、これからもするであろうことを、その傾向の強いこの民族と文化が、いままた感染症についても、同様にやらかしている、と思われるのだ。実のところ怖いのは、この点なのである。
 
毎日のように実数が発表されていた時と違うため、ますます脅威の感覚がなくなっている。それが、「みんな教」に拍車をかける。深刻な事態を請け負ったところには、もう光が当たらない。いま、もう日々十万人を超えて感染が拡大しているなどと言っても、全く何も感じないようになってしまっている。すると、突如としてカタストロフィが現れるということになる可能性が出てくる。そのとき、もう誰も責任をとらないし、他人のせいにしかしないのだろう。
 
聖書の預言の中に、そうした光景がいろいろ描かれている。教会は、そういうところを読み、伝えることに気が回らないほど、もう存在意義すらなくしているのだろうか。



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