あなたは神のもの

2023年7月24日

突然少し面倒な病気に苛まれ、説教を神学生などに任せることが続いた説教者。体調がどこまで回復したのか心配だが、その点は不安を感じさせることはなかった。むしろ、そのシンプルなメッセージは、聴く者に妙なゆとりを与えることがなかった。
 
開かれた聖書箇所は、ルカ伝の、いわゆる「皇帝への税金」。律法学者たちや祭司長たちは、イエスに対してかなり悪い印象をもっていた。なんとか陥れようと機会を窺っていた。そこに現れた人物を、ルカは「正しい人を装う回し者」と呼んでいる。読者に分かりやすくするためだ。なんとか「イエスの言葉じりをとらえ」ようとしたのだ。イエスの息の根を止めるところまで、計画してのことだったという。
 
十分なおべっかをイエスに垂らした後、「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」とイエスに問う。それは、どちらを回答してもジレンマに陥るような問いかけだ、と仕掛けた方は考えていた。しかしイエスは「彼らのたくらみを見抜いて」いた。
 
「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(ルカ20:25)
 
イエスの頓知話のような一幕であるが、そのようなイエスの才知を称えたところで、私たちが何を得ることになるのか知れない。このイエスの結末を誘うための準備は、イエスが税額にあたる銀貨を見せよ、と言ったことであった。「そこには、だれの肖像と銘があるか」と訊いたところ、刺客たちは、「皇帝のものです」と、当たり前の答えを返したのだ。
 
銀貨には、権力者の像や銘がある。それは珍しいことではない。イギリスの女王の刻まれた硬貨は、ローマ皇帝のやり方となにも違いはしない。ここから説教者は、聴く者に気づかせるための扉を開く。
 
神が神のかたちをかたどって、人を造ったこと。皇帝のかたちが刻まれた硬貨が皇帝のものなら、神のかたちが刻まれたあなたは、「神のもの」なのである。聴く者は、自分がほかでもない「神のもの」であるということに、背筋がピンと伸びる。
 
ルカ伝のほかに、詩編も開かれていた。詩編95編である。
 
95:4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。
95:5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。
95:6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
 
ここに、神により造られたことを心に留めるひとつの契機がある。この詩は、冒頭の1節で、「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう」と声を挙げていた。それは、説教者の祈りの中に、ずっと以前からあったことであったという。主は自分の名を呼ぶ。自分は主の名を呼び、叫ぶ。それは様々なバリエーションを含めて、説教者は「あなたはわたしのもの」だという神の声を聴く。それにより、支えられ、励まされて、ここまでを歩むことができたことを告白する。今回の病についても、痛みや苦しみはもちろんのこと、大きな不安に襲われることもあった。だが、このような祈りにより、支えられ、こうして再び立ち上がることができた。再び福音を語ることが許された。
 
神の言葉は、こうしてひとを救う。こうして生きてはたらく。その力強い証しが、今日のメッセージにつながり、重なった。御言葉を語るということは、ひとつにはこのようでなければなるまい。教義を紹介することではないし、聖書箇所を他人の解説を借りて説明することでもない。説教者が、ひとりの「証人」になるのである。たとえそうした体験がなくとも、説教者の語る言葉によつて、神の言葉が実現する場となることが、どうしても必要なのである。
 
神の像が刻まれた硬貨は、あなたのことだ。これが宣言される前に、私はすでそこに捕らわれていた。私の耳は確かなメッセージを受けながら、私の中では、上より流れ入る神の言葉が渦巻いていた。
 
もちろん、硬貨とは私のことだ。表向きは、皇帝が彫られている。それは皇帝に返すべきものだろう。だが、ここにあるのは私という硬貨だ。それが、通り一遍誰もと同じ皇帝の顔のままであるはずがない。私という固有の硬貨に刻まれているのは、皇帝の振りをしているが、確かに私なのだ。「コインにイコンが彫られている」というような洒落を言うつもりはないのだが、いまここに見えない形で、つまり神の形で彫られた私という硬貨がある。では、これはどこに返すべきだろうか。中身は皇帝ではないのだから、皇帝に対してではない。皇帝とは、この世の権力者であり、この世の制度であるととってもよい。この社会で従うべき規範に従うことは、この世で生きるために大切なことだ。だが、その背後に、もうひとつ真実の私というものがそこに隠れている。
 
イエスも言った。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。この硬貨たる私は、一面では、皇帝のもの、この世のものである。しかし、同時にその中身として、神のものであるという本質をもっている。これは、神に返すように、と促されていたのだ。
 
律法学者たちや祭司長たちの思い描く神殿に返すのだろうか。そうではないと思う。もちろん、ローマ帝国に尻尾を振ることでもない。もっと、純粋な次元で、私と神との関係の中での関係であるはずだ。
 
私という硬貨には何が刻まれているのか。私という唯一の人間である。もしかすると、その反対側には、イエスの十字架が刻まれていることに気づかねばならないのではないか。そして、そのような硬貨を私が、ただ俯瞰しているだけでは、絶対に気がつかないことがある。ただ頭で理解しているだけでは、感じることもないものがある。
 
それは、この硬貨を、イエスが握りしめている、ということだ。私という硬貨を、イエスは握りしめているのだ。その掌の温もりを、私はこのメッセージを聴きながら、確かに感じたのだ。その手は、やがて釘打たれ、血塗られてしまう。だが、それでもその掌からイエスは私を離さなかった。
 
なんなら、イエスと一緒に釘で穴が空けられた、とまで考えてもよい。しかしとにかく、イエスは私を握りしめていた。その温もりが、メッセージを聴く私に体温として伝わってきた。それにより、私は確かに神に結びつけられていた、ということをも自覚した。また、「愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイ3:14)というように、神と結びつけるものが「愛」であるというのなら、まさに「イエス」こそ「愛」なのであって、こうして聖書の伝えようとすることが皆つながってくるようにも思えたのである。
 
説教者は、もうひとつ次の出口を目指していた。神とのつながりを確信し、自分は独りではないという慰めを得たら、神のものを神にお返ししましょう、という方向で、説教を模範的に次の行動に移すように促すのだった。しかし私は、それを必ずしも言わなくてもよかったのではないか、とも思っている。「あなたは神のもの」、それだけでも十全なメッセージではなかったか。この慰め篤いメッセージが与えられたら、何も言わずとも、きっと聴く者は、神に返すことへと自ら動くことであろう。はっきりと示すことがなかろうと、聴く耳のある者は必ずや、そこへと自ら流れていくに違いない。「あなたは神のもの」という言葉が現実となるだけの、力強く、そして温かなメッセージで満足であった。



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