映画のはなし

2023年7月24日

映画は、昔から好きだった。小さい頃は、いまと違って週に何度も、映画放送があった。そもそも家の近くには映画館などなかったのであるが、テレビ放映されるものばかり見ていたのは、金銭的な理由が大きい。
 
中学生のときに、近くにあった大学の大学祭に行ったことがあった。何か食べながら、大学生が私と話をしてくれた。そのとき、ふと映画の話が出た。学生は、映画を観るというのは、人間の成長のためにもとてもよいことだ、というようなことを私に言った。
 
中学の終わり頃から、映画館で映画を観ることを知った。特に大学に行ってからは自由に観られるようになった。金銭的には厳しかったが、学費のほかはすべて自分のアルバイトで賄っていたので、映画を観に行くことは難しくなかった。大阪へ家庭教師に行くついでに観られるから、と大阪の映画館の会員にもなった。そこではしばしば、白黒時代の旧い名作がたくさん上映されていた。それで知る世界が増えたような気がする。
 
映画をひとつつくるためには、膨大な時間と、情熱が必要になる。多くの人の協力がなければできないし、つまりはまた費用が半端なくかかるということになる。それだけの心をこめて形作っていった映画作品である。もちろん、名監督と名優を用いてつくった映画はすばらしいかもしれないし、それでも最高度のものと比べると見劣りがするということがあるかもしれない。稚拙と呼ばれても仕方がないものがあるかもしれないし、多くの人の共感を得られないものになることもあるだろう。
 
商業ベースでつくられる映画も当然ある。いわばプロの作品だ。それを料金を払って観た人が、期待外れだった、と言いたくなる気持ちも、分からないではない。商業目的で作ったのではない場合、無料で提供したとしても、観た者からますます酷評を浴びる事があるかも知れない。
 
でも、私はそのようにはしない。たとえば料金を払って観たのであれば、その分、その映画から何かを得たいと思う。せっかく時間を費やしてこちらも観たのだ。何か自分に益になるような方向で捉えたい。どの映画も、何らかの熱意から生み出されている。何かよいところがある。観た自分にとってよかったと思えることを、まず見つけたいと思う。特別な名作と比較して、あれがよくない、これがだめだ、などと批評する気持ちは、さらさらないのである。
 
もちろん、またあの監督の作品だから観たい、という気持ちになるのでなければ、わざわざまたその人のものを観ることもないかもしれない。ただ、私が言いたいのは、とにかく観たのであるならば、悪口をぶつけて終わりにはしない、ということだ。
 
教会で説教をする牧師ならば、その気持ちはきっと伝わるだろうと思う。あなたの毎週の説教が、名説教家の説教に匹敵するのだとしたら、ご容赦戴きたいが、渡辺善太先生も、自分はそんなことはない、と告白しておられた。もしあなたが、世界の名説教と比較して、あれが足らない、これがだめだ、と説教後に批評されたら、あなたはどう感じるだろうか。「今日の説教は、5点満点中2点」などと直後に突きつけられて、平気でいられるだろうか。そんなことを言う信徒はいない。そう仰るかもしれない。だが、聞く耳のある信徒はそのような聞き方を、きっとしているものである。何が言いたいのか分からない、ありきたりのテンプレートの話でしかなかった、などと。果たして渾身の説教を、牧師はしているのだろうか。――しかし、私の指摘を失礼だと憤慨し、自分自身はつねに出会った神から恵みを受け、示された命の言葉を、これが救いだ、ここに証人がいるのだ、と毎週熱く語っていると言えるのであれば、どうぞ以下のことはお読みにならないで戴きたい。
 
毎週映画を上映するから、見なければならない。そういう映画館がある。そこのメンバーでいることは、何らかの名誉であるらしい。素晴らしい映画と出会ったことのある人が、どこか家の近くか、何かの伝のある映画館のメンバーになる。
 
但し、どうも毎週上映される映画は、つまらない。しょうもない映画ばかり見せられ続けても、毎週必ずしょうもない新作を見なければならないという生活を強いられているのであれば、不平も言わずにまた見に来るしかないであろう。しょうもない映画ばかりであれば、見た後に感想も述べず、一緒に見に来た仲間たちとの雑談に花を咲かせれば気が済む。そして映画の上映中には、見ているふりをして別のことを考えていればよいし、寝ていてもよい。お勤めで映画会場にさえいてその時間を我慢すれば、なんとかそこのメンバーで居続けられるのである。
 
また、メンバーでい続けるためには、映画制作者に対して批評するような真似は、決してしないものである。それなのに、毎週その映画を見に来ていて誰も文句を言わないのだから、きっと自分の作る映画は毎週名作であるに違いない、と思いこんでいるのだとしたら、いったいその映画というものは、何なのであろうか。
 
映画上映は、形だけのもののようである。誰も見てはいなし、悪口を言う勇気もなければ必要もない。ただ映画を上映していることが、その映画館の成立条件であるから、とりあえず意味のない上映を続け、皆が何らかの形で満足する。ただ、毎週空しく映画が上映されるだけ、という状態が続くことになる。
 
語られる説教は、なにも毎週トップクラスのものではないと思う。名説教家とはいえ、素晴らしいときもあれば、いまひとつのときもあるだろう。だが、聞く耳をもつ信徒というのは、そのどんな説教の背後にも、真に救われた牧師の、福音を伝えたいという熱い心を感じ取るものである。名説教がいま語られていないとしても、そのあちこちに、溢れんばかりの信仰と愛が詰まっていることを知っている。それは、ふんだんに出されていないときがあるかもしれないが、それでも、ちゃんと感じるものである。
 
ある礼拝では、病気のために説教をほかの人に代わってもらった説教者が、せめて祝祷ないし祝福と呼ばれる、礼拝最後の祈りだけのためでも、と前に立った。その口から真っ先に発された聖書の言葉、その力強い口調から、魂からの信仰が会堂一面に拡がるのを私は聞いた。思わず身震いした。そういうものである。だから名作説教でなくても、説教者の中から、神は顕れるのである。
 
単純に映画がそれと同じだ、と言うつもりはない。だが、私がどんな映画からも、何かを学び、何かを得て、その映画を評価する、と言った背景が、ここから少しでもお伝えすることができたら、幸いである。



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