地域猫のはなし

2023年7月22日

1年前の恐らく昨日、一匹の猫が命を全うした。小柄だったが、だいぶおばあちゃんだったのだと聞いた。
 
一週間以上、間を空けることがない。私たち夫婦は、猫たちのところに通っている。その直前の休日にも行って、その猫を膝に抱いて撫でていた。まさか、もう会えなくなるなどとは、夢にも思わずに。
 
ささやかだが、猫缶などの餌や、治療費の足しになるかと、寄付を続けている。地域猫のために、ボランティアとして働いている人々から感謝されるが、とんでもない、ボランティアの方々に対しては、とても頭が上がらない。
 
文字通り、雨の日も風の日も、朝夕に餌を与えに広い公園を手分けしてまわる。置き餌はしない。カラスなどが襲ってくるし、腐ったものを食べたら猫の命に関わる。その都度猫たちの名を呼んで集める。猫たちも、そうした毎日を知っているから、そろそろと思ったら、お出迎えをするか、餌をくれる場所近くで、係の人が来ないか見張っている。
 
台風の日も、大雪の日も、ほんとうに嵐の中を、毎日ボランティアの方々は歩き回る。どの猫が餌を食べたか、食べなかったか、すべて記録し、報告する。人に傷つけられた猫がいたら、大問題として掲げる。殺された猫もいる。何のはけ口なのか知らないが、さしあたりいまでは「犯罪」として立件可能である。
 
天気の好い日は、猫たちの住まいを日干しにする。家の中の様子も日々点検する。冬は毛布を入れ、朝にはカイロを取り替える。もちろん水も飲めるようにいつも皿を置いておく。猫の食欲その他健康状態もチェックする。
 
そして地域猫の特徴として、不妊手術も行っている。片耳に切り込みを入れて「さくら耳」と称する形にして、それを示している。このことは、ACの告知により次第に知られるようになってきた。もちろん、切り込みは猫に苦痛を与える手段とはならない。ただ、そのために捕獲するだけでも一苦労だ。が、もちろん費用もかかる。一部の自治体では、不妊手術のための補助金を出しているともいう。人間に対するそうした手術が問題にもなっている。猫に対しても、ある意味で不本意ではある。だが、捕獲された「野良猫」たちは基本的に殺される法律が人間界にはある。その大部分は、実は子猫なのである。そのような子猫を増やさないために、一代限りの猫たちの世話をしている、それが地域猫活動である。
 
関係者は、猫たちの世話をするばかりでなく、地域の方々の理解もお願いする。公園で猫を匿うのはよいとしても、その猫が近隣の家の庭に入っていくことがあるわけで、その方々にとっては不快な思いをすることが多々あるだろうと思われるからだ。傷ついた猫がいたら一旦ボランティアさんたちが自宅に連れ戻し、治療を施したり養生期間をもつこともある。心身状態によっては、ずっと外に出せないままで保護を続ける場合もある。「保護猫」扱いである。公園で自然の中で暮らせる猫は「地域猫」である。
 
残念なことに、SNSあるいはウェブサイトで、猫を可愛がる動画投稿のタイトルに「野良猫」と平気で書かれてあるものがいくつかあることだ。明らかにさくら耳であるので「地域猫」である。少なくとも、私が直接知るその場所でのその猫が映っている場合は、百%「地域猫」である。ボランティアさんたちは、彼らが決して「野良猫」と呼ばれないために、日々世話をしているようなものである。それを、通りがかりに猫を撫でた様子を「かわいい」と動画で示すだけならまだしも、「野良猫」と呼ぶことは、労している人々を愚弄するようなものである。理解を求めて私も書き込みをすることがあるが、全く意に介さず、次からもまた「野良猫」とタイトルを付け続ける悪質なサイトもある。言葉ひとつで、ひとの真心を踏みにじることがあることに気づいて戴きたい。
 
しかし私が直にそれだけの苦労をしているわけではない。大きな顔をするつもりはない。私たち二人は、日々そのための時間を奉仕することができない。だから、ささやかな献げ物で許して戴いているようなものだ。
 
私は昔から猫とは馴染みがあった。学生時代、京都に下宿しているときに、近所の通りすがりの猫たちと仲良くなっていた。しかし妻は、猫に触れたこともなかったという。あるとき、福岡県に猫の島があることを知り、そこで猫に触ってみたい、と妻が言った。そこで初めて肉球に触れ、また膝に載った猫の温もりを知った。
 
妻は熱心に調べた。わりと近いところに、猫カフェなるものがあるという。そこに行ったのは、新型コロナウィルス感染症のことで非常事態宣言が出る頃だった。私もさすがに猫カフェは初めてだった。猫エイズについて知ったのもその時が初めてだった。そのカフェの中にいるときに、仕事先から、授業が一旦すべて中止になるという知らせを受けた。
 
不要不急の外出はできなくなった。ただ、公園を歩くといったことは禁止されていない。そこで、これも比較的近くにあるその公園での地域猫たちのことを思い起こして、通うようになったのだ。
 
妻は医療従事者である。非常事態宣言の中でも勤務はなくならない。日々危険の中で、見えない敵と闘っていた。マスクは医療従事者にはかろうじて支給されたが、通常なら当然取り替えるところが、できないことも多かった。フェイスガードも頼りないようなままだし、防護服も限られていた。そしてまた、医療従事者に対する差別的な風潮が世の中に漂い始めた。
 
このような、心身共に追い詰められたような状態で、その心を癒やすのは、残念ながら教会ではなかった。教会もおかしくなっていった。やがては、まともな福音が語られることがなくなって、現在に至っている。
 
心を癒やすのは、猫たちだった。猫たちは、嘘をつかない。虚飾を張らない。最初から近づいてきた子もいたが、遠巻きにしていた猫たちも、私たちが安全であることを認識して、だんだん近寄ってくれるようになってきた。意思疎通もできるようになり、すっかり友だちになることもできた。
 
妻の心をコロナ禍で支えてきたのは、確かに猫たちだった。但し、誤解されてはいけないと思い、付言しておくと、事情を知って声をかけてくださったすばらしい教会があって、リモートではあるが、しっかりと福音の言葉を受け続けている。神は真実である。聖書が、命の言葉だということを、確かに受け止め、生きる力とさせて戴いている。コロナ禍は、リモートという方法で、人を結びつける道を切り拓いたともいえるし、それは神との道でもあるうるという事態をもたらしてくれた。
 
もちろん、猫を偶像としているわけではない。同じ被造物として、互いに愛し合うということは、神の望んでおられることでもある。この猫たちの生活を支えているのは、なんの報酬もないボランティアさんたちの努力による。命を支えるために、尽力していることを、私は神への奉仕であるように感じている。それにわずかでも協力するということなら、それもまた神への奉仕であるに違いない、と私は考えている。



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