命の福音

2023年7月18日

ある有名なタレント(?)が、先般急逝した。恐らく自ら命を絶ったものと見られている。こうした報道を垂れ流すことは、あまりよいことではない。また、その人となりをよく知っているとも言えない者が、とやかくその人のことを言うことは、さらによくない。それで、その人自身のことではなく、周辺のことを少し考えてみようと思う。それでも、関係する方々は傷つくかもしれない。だから私の呟きを正当化するつもりはないが、遅ればせながら声を出すことは、許して戴けないかと請うばかりである。
 
正直私はショックであった。テレビで見かけたときには、傾聴に値する言葉をたくさん零していた。それも、自分の言葉で、自分の目で見たこと、聞いたことを語ろうとしているように感じた。いわゆる芸能人らしい軽さは感じられなかった。Eテレでそうした見解が、テキストのように扱われて教育課題となっていることもあった。この番組が、残念ながら放送中止となったのは、個人的に残念である。
 
私生活でいろいろあったようだか、何かしら「新しい形」と称したその生き方は、当人たちにしか分からないことがあり、それをいちいち全国民に知らせる必要もないと思うので、何か事情があって、考えるところがあるのだろう、というくらいにしか見ていなかった。
 
だが、特にそのあたりが、強烈なSNSの攻撃の的になっていたというのだ。確かに、それはありえることである。そう気づいたのは、この悲しい報道の後のことである。
 
 
4月から6月まで、第一期放送を終えたアニメがある。「推しの子」という。そのテーマソング「アイドル」は、最初に聞いたとき、この新しさは何だと衝撃的だった。曲とサウンドの斬新さもさることながら、その歌唱力や内容、どれをとっても画期的だと思った。案の定、これは日本でトップヒットとなったが、韓国そしてアメリカでもナンバーワンの曲となりえた。
 
アイドルにまつわるミステリーのストーリーであるが、ここまでのひとつの重要なエピソードに、SNSで攻撃された若い女性俳優が、自殺未遂をするシーンがあった。それは現実のある事例を思い起こさせるものだったが、その遺族が番組を酷評していたことを知っている。但し、物語ではそこから立ち直るキャラクターとなった。それが良かったのか、悪かったのか、それは分からない。
 
SNSでの攻撃に自分を失ってゆくその女性の心理が描かれていたり、殺人現場が描写されたりするなど、R指定されて然るべき作品かと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
 
芸能界の裏側を見せるようなストーリー展開も話題になったが、SNS攻撃をする一般人たちのことは、いまのところ問題になってはいない。それを描くつもりはないようなので、物語としては仕方がないが、正に攻撃をした視聴者やネット参加者が問題にされないというのは、私としては不満である。というより、それではいけない、という気がする。
 
 
ワイドショー関係にとっては、この出来事は視聴率をとれるコンテンツであろう。だが、報道が追随者を生む事例を、この社会は過去に体験している。アイドルの死の後に、若者が何人も死んでいったのだ。こうした事情のため、注意深く報道するようになってはいるし、その直後に、「いのちの電話」などの連絡先を必ず示すことが、現在のお約束となっている。また、心が苦しい人はここで番組をもう見ないでほしい、というようなアナウンスを最初にすることも、何度か聞くようになった。せめてもの配慮であろう。
 
報道は、故人を必ず褒める。そのしていることには意義があった、と口を揃えて言う。どのくらいお付き合いがあったか知れないが、一斉に各局は故人のしたことが善いことであった、というような言い方をする。しかし中には、そのMCでありながら、そのことに疑問を呈する人もいた。だったら、存命中に褒めればよかったではないか、と。その通りである。死者を鞭打つことをよしとしない風紀がこの社会にはある。だが、その人が悩んでいる事態があったのなら、生きているその時に、助けるべきであった。それは本当のことだと思う。いざ亡くなってから、急に善い人でした、と言うのは、残った者の免罪符を自分で発行しているようなものではないか。
 
そんなことを考えた人も少なくはないだろうと思う。だが、私はやはり違う意識でいた。
 
この人に、福音を誰かが伝えただろうか。これである。さらに言えば、私がこの人に福音を伝えるような行動をとっていなかったこと、これが最も悔しいのである。
 
SNSで誹謗中傷を受けていたことを、知らなかった。知らなかったから仕方がないのではない。知ろうとしていなかったということだ。ちょっと考えれば、そうされていたことも予想できたはずだった。だが、そんな配慮はなかった。もし知っていれば、その人の味方になる発言をすることもできたし、反対意見に、その考え方はよくないと立ち向かうことも不可能ではなかった。もちろん、実際にそうできたかどうか、それはいまは問わない。また別の問題である。
 
 
昔、ある人気歌手がある事件で逮捕された。カッコいい男性だった。教会に、その歌手のファンの女性がいた。教会の祈り会で、その歌手に福音が届けられて救われるように、と毎週祈っていた。
 
その後、歌手の中にクリスチャンたちがいて、獄中の彼に聖書のことを伝えたという話が伝わってきた。あの祈りには、命があったのだ。
 
 
だから、祈ることが、私にも今回できたはずだったのだ。「私たちの教会は石頭ではありません。多様性を重んじます」と公言している教会が、正にその「多様性」の問題の渦中にいて攻撃されている有名人のために、どれくらい祈っていたのだろうか。祈っていた教会もあったかもしれないが、私の知る限り、そういう話は聞いたことがない。もしそうだとするとその場合は、自分たちは理解が広いのだ、と宣伝するためでしかなかった、と言われても仕方がないのではないか。否、その「多様性」を迫害してきたのがキリスト教であるということを、そもそも悔い改めたのだろうか。どの面下げて、多様性を重んじますなどと言えた義理だろうか。
 
そして、私もまた、そうなのである。正義のために闘い、傷ついている人に、あまりにも無関心でいた。弱い立場の中で、弱い立場の人々を代表して考えを堂々と述べ、そのことの故に攻撃を最前線で受けている人のために、祈ることさえできなかった。
 
そのような者が、イエスが自分に何をしてくださったかということを、本当に知ることができているのだろうか。イエスの痛みを、なんだと思っているのだろうか。
 
 
かの人は、身内にあの戦争を体験した人がいる。それはそれは酷い戦闘だった。そのため、戦争はいけない、ということを身を以て感じ、そのことも訴えていた。これをも覚えていたい。また、戦争はいけないと口にしたが故に、集中砲火を浴びてもなお、防御戦を始めず、攻撃を受ける一方だったのではないか、とも想像する。だが、それに耐えられなかった、ということなのかもしれない。これらは推測に過ぎないから、故人のことを決めつけているわけではない。また、当人のことを言わない、と最初に述べたことと矛盾する。すべて私の想像なので、当事者が本当はどうだったか、全く分からないことだけは、伝えておかなければならない。
 
祈ること。何らかの形で福音を伝えること。私は微力な営みを続けているが、それが届くことはなく、何かしらすがる糸のようなものを提供することもできなかった。それが悲しい。いまはしばらくそこに留まっていたいと思う。だが、これからも誰かが生きること、生き生きと生きることのために、届くものがあれば、との願いは持ち続けたい。



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