みんな教の幻

2023年7月12日

エスカレーターで以前まで、福岡では人は左側に立っていた。右が追い越し通路のようなものだった。昔大阪で始まった、急ぐ人のための片側空けようキャンペーンがずっと続いていたのだ。尤も、大阪では人は右側にじっと立つものだったが。
 
しかし、その危険性が認識されると、鉄道会社関係から、エスカレーターでは歩かない、というキャンペーンが始まった。地方で条例化したところもある。ポリシーが動いてよいのかという声もあろうが、事の認識により潔く改めるということは大切であろう。
 
私も昔歩いたことはある。だが、あるときそれが危険だと認識して、歩かないようになった。以前は空いた方を塞ぐのにはだいぶ勇気が必要だったが、世間で危険性が話題になり始めたら、空いた側に立ちやすくなった。元来エスカレーターにしても、片方に重量が偏らない点でも、また多くの人を一度に運ぶことができる点でも、左右に立つほうがメリットがあるはずであった。また、コロナ禍になってからは、片側に並び間を空けると、四分の一の人しか運べず、本当に効率が悪いことこの上なかった。
 
初めの頃は、後ろで舌打ちする者もいた。が、駅でのポスターや表示も多くなり、認識が広まってくると、嫌がらせは殆どなくなってきた。が、片方が空いていると、歩く人がいなくなったわけではない。特に、最初のうちは静かであっても、誰か一人が動くと、それに続いて次々と歩く人が後に続くことは、毎日見る風景である。
 
自分から動こうとはしない傾向にある。が、誰かが動けば、自分も、と次々と動いていく。日本の「みんな教」と称した人がいるが、一種の宗教のように、こうなる精神風土があることは否めない。自分からはやろうとしないが、周囲を見て、誰かがしていると、自分もしてよいと判断するのだ。あるいは、自分もしないといけないんだよな、とでもいうように、本当は悪いと分かっていることでも、自分で免罪符を発行するとでも言えばよいだろうか。
 
誰かが空き缶を塀の上に置けば、どんどん後から空き缶が置かれていくそうだ。ゴミもそうで、誰も捨てていなければしばらくきれいなのだが、一旦誰かが捨てれば、どんどんゴミが増えていくのだそうである。
 
「赤信号 みんなで渡れば こわくない」の漫才は、誰しもが思い当たるので笑っていたのであろう。
 
一旦誰かがいじめの標的になれば、その子をいじめても「よい」ことになっていく。自分ひとりではできないことでも、「みんな」がそうだと言い始めると、そちらに靡いてゆく。このとき「みんな」というのは、すべての人だという意味ではない。「みんな、買ってもらっているよ」と子どもが言うとき、クラスの中の三人くらいであることもしばしばだ。その程度だ。
 
しかし、誰かが動いて、あまり考えなしに「みんな」がしているから、とそちらに動いていくならば、天秤の傾きは一気に変わることがある。まさか戦争なんて嫌だね、などと一人ひとりが話していたとしても、さあみんなで応援しよう、ということになると、文字通り「みんな」がそれに加わっていくことを、歴史は経験している。そしてもはや少数派となった戦争反対派は、攻撃の対象になっていくのである。
 
キリスト教会も、太平洋戦争のとき、戦意昂揚の声を重ねたことがあるという。そうしなければ官憲により弾圧されるからという理由も分からないではないが、しかしそのことを日本基督教団が「責任」ということに結びつけるためには、戦後四半世紀を必要としている。もちろん、その声明を発しただけで責任を果たして終わり、というふうに考えた人は誰もいないだろう。そして例えば日露戦争についてだと、いまでも名牧師などと伝えられるような人が、戦争に大いに賛同していた、などという情報も耳に入ってくる。そうすると、それを慕う多くの純朴なキリスト者がまた、戦争万歳と与していたに違いない。
 
誰かがすれば、「みんな」のせいになり、自分が責任を負うことはない。これが「みんな教」の教義である。エスカレーターを歩く人の様子を見て、私は、これらの人が、世の中が少し変わって誰かが何らかの動きを始めたときに、一気にそれに加担して、民主主義の名を多数決により置き換えて、国や社会をすっかり変えてしまうのではないかと危惧している。当たらないでほしいとは思うが、私はそういう悲しい幻を見ている。「みんな」がしているから「仕方ないよ」と自ら免罪符を発行する人々の群が、見えるのだ。
 
ここまで、いかにも日本だけが「みんな教」だ、みたいに聞こえる言い方をしてきたかもしれない。だがそれは本意ではない。むしろ諸外国から流れてくる報道で、日々その恐れを感じている。先進国と呼ばれる国々から、それが伝わってくる。フランスでの暴動は生々しい。アメリカでも、イケイケの暴力が大きく報じられたことがある。他のヤツが暴れているなら、俺も暴れてよいのだ。日本と少しばかり構造が違うかもしれないけれども、民主主義とか理性とかいう建前が、いとも簡単に崩壊する現実が確かにあるのだ。もっと恐ろしいことが、起こり得るこの現代という空気の中で。
 
お断りのようになるが、これは「私」を除外してしまう言明ではない。私もまた、すでにそうした安全性の中に逃げ込んでいる部分がきっとあるだろうし、これからさらにけしからんことをしでかす一人となるかもしれないのだ。「自分だけは騙されない」と高を括っている者ほど、詐欺からは狙われるともいう。できればその餌食にはなりたくないものの、目を覚ましていたいと願うばかりである。
 
旧約聖書では、預言者エリシャが、珍しく涙している箇所がある。私の心に時折浮かぶ、印象的な場面である。事の背景を説明するとまたさらに長くなるので、もはや何の説明もせず、それを引用して、この悲しい幻の話を終えることにする。
 
列王記下8章
7:エリシャがダマスコにやって来たとき、アラムの王ベン・ハダドは病気であった。だが、「神の人がここに来ました」との知らせを受けると、
8:王はハザエルに、「贈り物を携えて神の人に会いに行き、私のこの病気が治るかどうか、あの人を通して主に伺ってきてほしい」と言った。
9:ハザエルは、贈り物としてダマスコのあらゆる良いものを、らくだ四十頭に載せて携え、エリシャに会いに行った。彼は到着するとエリシャの前に立って言った。「あなたの子、アラムの王ベン・ハダドは、自分のこの病気が治るかどうかと言って、私をあなたのもとに遣わしました。」
10:エリシャは答えた。「行って王に言いなさい。『あなたは必ず治る』と。しかし、主は彼が必ず死ぬことを私に示された。」
11:神の人は、ハザエルが恥じ入るほど、じっとその顔を見つめ、それから泣き出した。
12:ハザエルが、「ご主人様、どうして泣かれるのですか」と言うと、エリシャは言った。「私は、あなたがイスラエルの人々に危害を加えようとしているのを知っているからだ。あなたは彼らの砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼い子を八つ裂きにし、妊婦を切り裂く。」
13:ハザエルが、「あなたの僕、この犬に、どうしてそのような大それたことができましょうか」と言うと、エリシャは、「主は、あなたがアラムの王になることを私に示されたのだ」と答えた。



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