【メッセージ】クリスチャン

2023年7月9日

(イザヤ61:1-2, ルカ6:20-26)

人々があなたがたを憎むとき、また、人の子のためにあなたがたを排斥し、罵り、その名を悪しきものとして捨て去るとき、あなたがたは幸いである。(ルカ6:22)
 
◆クリスチャン
 
いまどき「マジック(インキ)」と呼ぶのは、一定の年齢以上の人かもしれません。それは商品名です。他社の製品をそう呼ぶのは、本来理屈に合いません。そこで「マーカー」や「サインペン」などが広まっていると思います。本来は「フエルトペン」でしょうが、あまり使われていないように思います。「ホッチキス」は商品名でありながら、一般名称のように使われる代表でしょうか。「ステープラー」が適切な呼称です。尤もアメリカでは、「スコッチ」など、お構いなしに特定の商品名で呼ぶことが非常に多いと聞いています。
 
「ミシン」と「マシン」が同じ英語からきているとか、「シーツ」は複数形ではあるけれど「シート」同じ語であるとか、外来語を日本語にするとき、いろいろな使い分けが起こったのは興味深く思います。「カルタ」と「カード」は言語が違うとはいえ、日本語としてはちゃんと使い分けができています。それはまた「カルテ」も同じなのですが。
 
「クリスチャン」は「キリスト者」とどう違うのか。私の語感はありますが、皆さまに押しつけることはしたくないので、申し上げません。でも、「ク」と「キ」の違いが初めにあるため、一般には結びつきが難しいかもしれません。「クリスマス」は「キリスト」の「マス」だと、説明しなければピンとこないのではないかと思います。芥川龍之介はいつも「クリスト」と記していますが、他の文学者はどうなのでしょう。時代的なものなのでしょうか。
 
そういえば日本には、「クリスチャン新聞」と「キリスト新聞」というのもありますね。但し「クリスチャン」は「キリストの」という形容詞から人を表す名詞にもなると考えられますから、「クリスチャン」=「キリスト」ではなく、「クリスチャン」=「キリスト者」ということになります。キリストを信じる人のことです。
 
見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて、大勢の人を教えた。このアンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった。(使徒11:26)
 
原語では英語の「クリスチャン」とほぼ同じ語であり、口語訳までは「クリスチャン」と訳されていました。
 
日本語一般からしても「クリスチャン」が多く、教会内でやっと「キリスト者」と呼ぶような気がします。特に「敬虔なクリスチャン」という常套句があるため、実に恥ずかしい思いがします。しませんか。皮肉をこめてそう言うこともあるとは思いますが、概ね好意的に言っているように見えます。
 
でも、それでよいのでしょうか。そんな意味で、使徒言行録に書かれていたのでしょうか。「キリストの者」「キリストに属する者」、そう認める前に、「キリスト狂い」というような悪口めいた言い方をされていたということなのではないのでしょうか。このことについては、後にまた触れることにします。
 
◆油注がれた者
 
「クリスト」であれ「キリスト」であれ、さしあたり私たちはいま「キリスト」と呼ぶことにします。この語は、「油注がれた者」という意味のヘブライ語「メシア」をギリシア語に移したと言われています。詳しくはまたいろいろ調べて戴くと助かります。いまはこの程度で進みます。
 
「油を注ぐ」というのは、旧約聖書でよく出てくる表現で、注がれた者がこれにより何か重要な任務に就くことを意味していました。「油注ぎ」は、従って儀式です。イスラエルで敬愛されるダビデ王などは、三度これを受けているように数えられます(サムエル上16:12-13, サムエル下2:4, サムエル下5:3)。
 
いまの私たちから見ると、これは「洗礼」をイメージさせるようにも思えます。水で洗い、過去の罪の自分に死に、新たな命を生きるための儀式です。聖書の時代には、油、おそらくオリーブ油が、生活にも重要なアイテムだったと思われます。食用はもちろん、燈火用としても必要です。そしてこのような儀式のためにも使われました。
 
香油というのもありました。ナルドの香油を、死へと旅立つイエスに注いだという女の話が福音書に書いてあります。ナルドという草の根茎を搾って出た液をオリーブ油に溶かしたものだそうで、何百万円もするようなものだったために、注がれたその場では、弟子たちの冷ややかな視線があったようです。
 
イエス・キリストという名は、姓名ではなく、この「油注がれた者」としてのイエスを表すものです。「鈴木先生」とか「リア王」とか呼ぶようなもので、一定の地位を示すための表記だといえます。「油注がれた者」はイスラエルの「王」だと認識されましたから、「イエス王」のような捉え方をしてもよいと思いますが、私たちは通常「主イエス」と呼んでいます。これが「イエス・キリスト」の意味だということで、だいたいよいだろうと思います。
 
ただ、こうした問題をよく調べる学者もいるもので、神学的な意味を考える人も数多くいます。とりあえず私たちは、この程度の基礎知識をもっていることで、福音書や書簡などの場面や表現の理解に、なるほどと思えることが増えていけばそれでよいのだ、ということにしておきましょう。たとえばイザヤ書61章の冒頭の部分をお開きします。
 
1:主なる神の霊が私に臨んだ。/主が私に油を注いだからである。/苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。/心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために。
2:主の恵みの年と/私たちの神の報復の日とを告げ/すべての嘆く人を慰めるために。
 
イエスは、「私に油を注いだ」というような役回りとして人々の間を歩いた、いまはこれくらいで勘弁してください。ただ、この部分は実に味わい深いものだと考えています。さらっと流せばそうですかという程度の表記のようですが、一つひとつ考えていくと、たいへん心が豊かにされていくのを覚えます。
 
たとえば「苦しむ人に良い知らせを伝えるため」と書かれていますが、当時「苦しむ」とはどういうことだったでしょうか。貧しさでしょうか。虐げられたことでしょうか。それらは政治世界における結果であり、ローマ帝国の一部として支配されていたユダヤ全般がそうだったかもしれません。他方ユダヤのエリート層が、精神的に庶民を追い詰めていたという構造が、福音書のイエスの目には強く映し出されていました。
 
これをいまの時代の中で捉えなければならない、と私はよく考えています。
 
◆良い知らせ
 
さて、いまの「苦しむ人に良い知らせを伝えるため」というメシアの役割のひとつを挙げた中に「良い知らせ」という言葉がありました。よく知られているように、「福音」という言葉は原語では「良い知らせ」の語を一語にしたものです。
 
なお、「福音」は「ふくいん」と読みます。漢字の音には呉音・漢音・唐音などの区別があるとされており、一般に漢音が使われることが多いとも言われますが、実は「いん」が漢音で、「おん」は呉音です。呉音は古く伝わった読み方で、仏教用語には多いようです。本来仏教で「らいはい」と読んでいたのを、キリスト教が漢字を戴いて「れいはい」と読むようにしたために、「れいはい」のほうがともすれば一般的になっているとすれば、申し訳ない気もします。
 
「良い知らせ」としての福音についてでしたが、その人にとって、いったい何が「良い知らせ」なのでしょう。人により望むことは異なるに違いありません。おおまかに捉えて、それは「幸せとは何か」という問いに似ているようにも思えます。
 
打ちひしがれた人は、慰めを求めているかもしれません。束縛された人は、解放されたいと願うでしょうか。「心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げる」(1)には、主が「私」を遣わした目的が現れています。そしてさらに、「主の恵みの年と/私たちの神の報復の日とを告げ/すべての嘆く人を慰めるために」(2)には、いつかその問題に、主が決着をつけてくださるということを期待させるものが描かれています。あるいは、このように神の力があらゆる悪に勝利するという約束そのものが、「良い知らせ」だと思う人がいてもよいでしょう。
 
あなたにとって「良い知らせ」とは、どういうことをいいますか。これは、一度しっかりと考えておくべき問題であるように思います。
 
◆幸いと災い
 
新約聖書の、ルカによる福音書6章を開きます。マタイによる福音書であれば、有名な「山上の説教」で語られたことが、ルカでもいくらかまとめられています。「心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)という言葉がよく知られています。「天の国」は、「神」という語を避けたマタイによる言い換えですからよいとして、ルカでは「心の」がなく、端的に「貧しい人々は、幸いである」と言われています。どうやらこちらの方が元来の資料ではないか、という研究者が多くいますが、いまはそうしたことに関わらずに受け止めましょう。
 
20:さて、イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた。/「貧しい人々は、幸いである/神の国はあなたがたのものである。
21:今飢えている人々は、幸いである/あなたがたは満たされる。/今泣いている人々は、幸いである/あなたがたは笑うようになる。
22:人々があなたがたを憎むとき、また、人の子のためにあなたがたを排斥し、罵り、その名を悪しきものとして捨て去るとき、あなたがたは幸いである。
23:その日には、喜び躍りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 
「貧しい人々」「今飢えている人々」「今泣いている人々」は幸いなのだと言います。人々に憎まれ、排斥され、罵られ、名を悪しきものとして捨て去られるとき、幸いだ、とも言っています。
 
あなたは貧しいですか。飢えていますか。泣いていますか。そういう方もいらっしゃいます。神はあなたに、幸いだという言葉を与えています。神の言葉は真実です。ほんとうのことになります。あなたに幸いがもたらされることを、願って止みません。しかし、そう貧しくもないし、飢えているわけでもない、泣いている毎日などではない、という人もいらっしゃるでしょう。その人は、幸いではないのでしょうか。
 
24:しかし、富んでいる人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたはもう慰めを受けている。
25:今食べ飽きている人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたは飢えるようになる。/今笑っている人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26:皆の人に褒められるとき、あなたがたに災いあれ。彼らの先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。
 
今度は怖い響きになります。ルカは、これでもか、と畳みかけます。今食べ飽きている人々、飽食の私たちを狙い撃ちしているかのようです。今笑っている人々、教会でにこにこしている私たちのことでしょうか。そんな者には災いがあれ、と呪っています。イエス自らの呪いです。いまに悲しみ泣くようになるのだ、ざまあみろ、とでも言いたげです。皆の人に褒められているようなら、災いあれ、と重ねます。ズキンときませんか。
 
ユダヤのエリート層が、精神的に庶民を追い詰めていた様子を指しているのかもしれません。それは当時の話です。が、当時だけでしょうか。いまの時代でもありはしないか、考えて見る必要がないか、と私は提言します。もちろん、弱い立場の人の味方と称し支援をするひとは大切です。そのために労しているキリスト者がいます。敬服します。私にできないことを立派にしてくれています。
 
しかしその弱い立場の人々をつくりだしているのは、誰なのか、立ち止まって考えることがあってもよいと思います。私などは、福音書に描かれたエリート層の立場のほうに、近く立っているような気がしてなりません。イエスの、ファリサイ派の人々などへの攻撃は、私に向けて飛んできているのではないか、と苦しく思うことがあります。マタイが記さなかった、ルカのこの災いの描写を見る度に、胸が痛むのです。
 
◆預言者と偽預言者
 
先の箇所の最後に、ちょっと引っかかるところがありました。
 
26:皆の人に褒められるとき、あなたがたに災いあれ。彼らの先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。
 
この最後の「彼らの先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」(26)の意味がよく分からなかったのです。そこで、これと対比される表現が前半にもあったことを思い出しました。
 
23:その日には、喜び躍りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 
こちらは幸いを告げたところです。不幸に見舞われた人が、実は神により幸いとされる、そういう構図でいろいろ告げられていた場面でした。このとき「この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」(23)と言っています。「この人々の先祖」は、旧約聖書に登場するユダヤ人のことのようです。ユダヤ人たちは、預言者たちに同じこと、つまり憎み、排斥し、罵ったのです。エレミヤ書のように、預言者の暮らしをかなり詳しく描いたものを見ると、その様子がよく分かります。エレミヤは、井戸に吊されたり軟禁されたりし、誹謗中傷をしばしば受けていました。
 
ルカの筆致は、けっこういやらしいようにも見えます。ユダヤ人に皮肉めいたことを言っているかもしれないのです。そこで、私たちはこのイエスの言葉がどういう場面で言われていたか、よく考えてみることにしましょう。このシーンを映画で撮影するならば、どういう画にするべきでしょうか。実は、ちゃんと聖書には書いてあります。同じルカ6章、取り上げた箇所の直前です。
 
17:イエスは彼らと一緒に山から下りて、平地にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
18:イエスの話を聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々も癒やされた。
19:群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人を癒やしたからである。
20:さて、イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた。
 
イエスのこの話を聞いていたのは、夥しい民衆でした。イエスに好意的な人も含まれていますが、ユダヤ人たちを目の前に置いての話でした。それでいながら、イエスは「目を上げ、弟子たちを見て言われた」のでした。ユダヤ人たちに聞こえるように話しているのですが、視線は弟子たちに送られているという形です。
 
ルカは、「群衆」に対しては非難の気持ちを向けて描くことがありますが、ここの「民衆」は、必ずしも敵視すべき人々ではないと思います。集まったユダヤ人たちを、イエスは責めているわけではないのです。ただ、その先祖たちのことは、先ほどのように責めていました。ルカは異邦人宣教をモットーにしていますから、そのせいもあるかもしれません。
 
ユダヤ人の先祖たちは、神の言葉を伝えた預言者たちを、憎み、排斥し、罵っていたというのです。貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々を憎み、排斥し、罵っていたのです。
 
これを押さえておきながら、対比して、ユダヤ人たちも偽預言者たちに同じことをした、そう言っていたのです。ユダヤ人たちは、本物でなく惑わして神の言葉を偽って騙るような偽預言者たちのこと、食べ飽きさせていたのであり、笑顔にさせていたのであり、たっぷりと褒めそやしていた、ということを知らせているわけです。
 
◆イエスこそ
 
初めのほうで、この聖書の箇所を受け止めるとき、私は「いまの時代の中で捉えなければならない」と申しました。正にここで、クリスチャンは考えなければならない問題があると考えます。
 
いろいろな立場の方がいらっしゃいます。誰をも蔑ろにしないつもりです。ただ、教会に集う人々の、比較的多い立場を用いることを、どうかお許しください。生活に深刻に困っていない、普通の生活を送ることができている人たちのことです。中には、かなり裕福な生活ができている人もいます。食べ飽きて、笑えていて、人に褒められているような人たちです。そのような人が、ここでの分類で言えば、偽預言者の部類に入ることになってしまうかもしれない、ということです。この視点から、逃げずに立ち向かいたいとおもうわけです。
 
わざわざ貧しさを求めた人もいます。カトリックの世界では、よくある理想の姿です。たとえば、聖フランシスコが有名です。富裕な暮らしを捨てて、主イエスのために貧困を極めたのです。プロテスタントは、そうした「聖人」の話にはうんざりした顔を示すことがあるかもしれません。しかし、何らかの形で、こうした人の姿と向き合うことは、必要ではないかと思うのです。プロテスタントの中には、神は信仰者を祝福し、豊かにします、ということをウリにして、金持ちになり成功した人を祝福された人だと称えるようなメッセージを送る、メガ教会の伝道者もいるからです。神に祈れば祝福される、というような、分かりやすいメッセージかもしれませんが、それがイエスの教えなのでしょうか、とだけ問いかけたいと思います。
 
ある教会での話です。特別集会で招いたゲストが、信じたから成功した、というような証しをしたことで、もうその団体かからはゲストを呼ばないことを役員会が決めた、ということがあったそうです。なんとも健全な教会だと感動しました。しかし、そのような決定を直ちに下すというような教会が、いまや少なくなっているのではないか、と危惧します。この世の成功が神の祝福だ、という図式で捉えるような見方に酔い痴れているような教会も、案外多いのではないか、と。
 
貧しい人々。飢えている人々。泣いている人々。憎まれている人、排斥されている人、罵られている人。名を軽んじられている人。理不尽な仕打ちに、どうして神は、と嘆いている人。苦しんでいる人がいます。その人に「幸いだ」と声をかけるイエスがいる、などと言っても、じゃあ実際何をしてくれるんだ、と文句を言われるかもしれません。
 
私はその人にかける言葉をもちません。私は安穏とした生活をしているからです。極端な贅沢はしていないと思いますが、さしあたりいま困窮やいじめで苦しんでいるとは言えないわけです。あんたには分からん、と言われればそれまでです。でも、誤解を恐れず申しますが、イエスがその人と共にいる、それは言ってもよいのではないでしょうか。あなたのことを分かってくださるイエスという方が、そこにいるのだ、と。
 
イエスは、富裕な者には加担しませんでした。パンだけで生きるのではない、というスピリットで旅して回りました。病と差別に絶望する人々、人生を諦めた人々に涙した方でした。福音書の記事によれば、実際に癒やしを与えたといいます。死者を生かしたとも書かれています。しかしそのことを憎んだ人たちがいました。地位ある人々、自分たちこそ神の教えを守っている立派な人間だと思っていた人たちです。イエスこそ、憎まれ、排斥され、罵らせ、唾を吐かれ、鞭打たれ、嘲笑され、心身共に傷だらけになった上に、釘を打ち込まれ、十字架の上で見せしめの刑として殺された方でした。それでも「幸いだ」ということを身を以て現した、正にその当人ではなかったでしょうか。最も不条理な目に遭っていたのは、イエスその人ではなかったのでしょうか。
 
◆クリスチャンの生き方
 
聖書は、イエスに従う生き方を薦めます。十字架を負ってついて来なさい、などとも言います。それは、人当たりよく、人に褒められることを選択するばかりの生き方ではないようです。そういうことのできない、無器用な生き方しかできない人もいるでしょう。私もそうかもしれません。捻くれていて、多くの人が賛同しようが、そこに偽りがあればそれを肯んずることのできない、頑固者です。でも、私はやはり、本音を隠して建前で平和に生活しようとすることが基本であるような気がします。
 
イエスに従うということが、無闇に憎まれればよい、排斥されるように行動せよ、という意味ではないだろう、とは思います。しかしイエスに従おうとするときに、憎まれたら、罵られたら、従うことを止める、ということでもないのだと思います。
 
22:人々があなたがたを憎むとき、また、人の子のためにあなたがたを排斥し、罵り、その名を悪しきものとして捨て去るとき、あなたがたは幸いである。
 
ここには「人の子のために」という言葉があったことを見落としたくありません。「人の子」とは聖書ではイエスのことを指すと理解できます。イエスのために、排斥され、罵られるときに、幸いなのだ、と言っているのです。そのことの説明として、ペトロの手紙一の4章から少しお読みします。
 
12:愛する人たち、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません。
13:かえって、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです。
14:キリストの名のゆえに非難されるなら、あなたがたは幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
15:あなたがたのうち誰も、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
16:しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じてはなりません。かえって、この名によって神を崇めなさい。
 
「クリスチャン」とは、「キリスト狂い」というような悪口めいた言い方のことかもしれない、と初めに申しました。世に現れたグループの中には、悪口を叩かれ、それをむしろ看板として掲げて称されるようになっていたものがあることを思い起こします。「プロテスタント」自体、「反抗する者」の意味でした。「印象派」はモネの「印象」という言葉のついた作品をバカにしたことから付けられました。「キュビズム」も、なんで立方体なんか描いているんだ、と嘲笑されたことから始まりました。「バロック」とは気持ち悪い悪趣味だという軽蔑の言葉でした。
 
「クリスチャン」は「敬虔なクリスチャン」などという常套句と共に、なんだか美名のように扱われるように考えられているかもしれませんが、きっと軽蔑の呼び名であったのだと思います。クリスト、つまりキリストは、最も汚されまくった人生を送ることを余儀なくされた方だったのです。憎まれ、排斥され、罵られ、殺されたのです。でも、そこに「幸い」があると見る光を与えたのでした。ただ殺されたのではない、復活されられた。蘇り、永遠の命の中に輝いているという、その「先」があるというのです。
 
表向きの、飾った名前や組織を誇るような誤りから、私たちは遠ざかろうではありませんか。イエスが非難したファリサイ派の人々のような考え方や行動をとっていないか、もう一度我が身を振り返ろうではありませんか。
 
私たちはただイエスを誇るばかりです。それは、どんなイエスなのでしょうか。どんな「名」なのでしょうか。それは、イエスと出会う一人ひとりの中に、答えがあります。あなたの中にも、必ずあります。



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