踏み込む勇気

2023年7月6日

もしもその大切なことを、言わなければ、そのままでいられることだろう。いまのままの関係で、とりあえずしばらく過ごしていくことができるだろう。
 
けれども、もし自分が何かを言えば、いままでのままではいられなくなる。踏み込んだ結果、うまく事が運べば、次元の違う幸福な時空に入ることができるかもしれない。だが、逆の場合には、すべてが壊れてしまうかもしれない。これまでの関係に戻ることも、できなくなる。
 
恋愛には、そうしたスリルが待ち受けている。一歩踏み込みたくても、その勇気が出ない。打ち明けたくても、どうしてもためらってしまう。大きな賭を目の前にしている。
 
近ごろの青春アニメは、とくに男の子のほうに、このためらいが目立つような気がする。どちらかというと女の子のほうが、むしろ積極的にアプローチしてくる傾向がある。と、それはよく見ると、原作者が男性の場合が特にそのようでもある。ダメダメ男子に、憧れの女子、といった男性作者の設定も、あるあるだ。
 
どうしても、こうした精神的な営みを、「信仰」という場で考えてしまうのが、私の特徴だ。悪い癖かもしれない。神を信じることへの憧れがあっても、何かしらためらいというものが、足をすくませてしまうことはありはしないか。それは、これまでの自分というものを守ろうとする、本能的な恐れであるかもしれない。
 
神の側の対応も様々であって、たとえばそういう人間をそっと見守ることもある。人間の側からしか扉を開けるノブが回せない、そんなドアの向こうで、イエスがノックしている絵がある。黙示録のあるシーンを描いたものとされる。しかし他方、神のほうから強引に介入してくることもある。預言者エレミヤは、そうやって有無を言わせず神に人生を動かされてきた。ヨナがまた、その典型であるかもしれない。見ていて気の毒になるほどだ。
 
私の場合はどうだろう。私が踏み込んだ一面が、ないわけではない。だが、まずは神に引きずり出されたのだ。ずるずると引きずり出されて、自分を思い知らされたのだ。そして、十字架のイエスと出会ったのである。
 
だから、その後自分から踏み込んだかのように見えても、もうそうせざるを得なかったのだ。将棋の駒にでもされたかのような感覚をもち、神の差し手によりどうしてもそこへと動かされる、というような体験を語る人がいる。確かにそうだとも思う。自分で選択しているかのようで、実はそうではないということに、後から気づかされるのである。
 
自分がごり押しで招く道は、情けないことばかり起こる。自分の馬鹿さ加減に嫌気がさすこともある。だが、然りは然り、否は否。このスピリットを忘れていたこともあった。長らくすっかり騙されていた、ということが後に分かり、口惜しい思いをしたことがある。
 
死んだ子の歳を数えるような真似はするまい。否は否である。その勇気は、自分の中から奮い起こすようなものではない。その前提の基に、上より霊を与えられ、助けられて、人間臭い原理には背を向けようと思う。教会へ行けば神に出会えるというのは本当だ。だがたとえ「教会」という看板を掲げていたとしても、そこに人間しかいないところがあるものだ。神を知る人々のいるところに、聖書が物語る「教会」はある。もちろん、それこそがキリストのからだなのである。



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