愛が冷える時代

2023年7月4日

ぞっとする寒気を感じることがある。しかし、愛が冷え切ったことを、冷え切っている当人は感じることができない。自ら冷え切った者は、対象が冷たいことを知ることがないし、自分の冷たさも分からない。それが冷たいと知るのは、自分が暖かである者だからこそなのである。否、自分は冷たくても、暖かであるものを知るならば、それは可能であろうか。
 
教会であろうが何であろうが立派な組織となり、冷たい規則を構えて個人の愛を潰そうとする。組織の側は個人にコミュニケーションを図っているのに、個人のほうが無視しているなどという報告があったとする。しかし、対話の意志もないのに、対話をしようなどと持ちかけるのは、決まって強い側の態度だ。私も何度そういうことを味わってきたか知れない。これは、強者自らは気づかぬことである。
 
が、組織が悪いかのようなイメージを提供していたのは、実は特定の人物だけだということもままある。どうやら、当事者の声によると、組織そのものに問題があるわけではないようなのだ。当事者は、元の関係組織と適切に関わり、それぞれが意見を交わしているわけである。
 
しかしどんな情報からなのか分からないが、その特定の人物は、事態をよく知らないにも拘わらず、さも当事者が奇妙な振る舞いをしているかのように公言していたのだ。しかも、それを自分の考えではなく、組織の意見によると、のようにカムフラージュしている。こちらがいっそう悪質である。
 
肝腎の組織のほうがそんなことを言っている様子は微塵もなく、この人物だけがそのような裁きにも似た内容を告げているのである。そしてこれ見よがしに、当事者がこれまで恩を受けてきているのに、のような示し方までしている。
 
こうした人物自身、「説教」にも「信仰告白」にも、教科書にあるものを並べることしかできないとすると、価値のない自分がどれほど援助されてきているのか、全く気づくこともないことになる。確かに、時折そういう人を見る。いや、他人事ではない。私自身、どれほどの仕事をしているのかと思うと、甚だ情けないのであり、日々ありがたく感じ続けているしかない。
 
愛することのない者は、神を知らない。神を知らないものは、愛することができない。周辺の取り巻きにも責任があるかもしれない。どうして見えないのか。どうして分かろうとしないのか。全く理解できない。
 
こうした様子に、なにか違和感を覚える人がいるのだと思う。もしかすると、ごく一部、まだ生きた人がそこにいるかもしれない。素直に考えれば、日頃からしてなんだかおかしい、と気づいている、心ある人がきっといるはずだ。その気づきは適切である。はっきり目を覚ませば、その人は生きるだろう。しかし、もしそれでもなおそのおかしな者に追随し担いでいるばかりならば、「多くの人」の中に溶けこんでいってしまうのではないか。
 
いずれにしても、かつて過ぎた歴史においてもそうだったかもしれないが、いまもまた例外なく、愛が冷える時代となっている。もともと自分には愛がないのだということで打ちのめされたため、私自身のことを思うと、誰かを「愛がない」と非難するようなつもりはない。それは自分の姿なのだ。ただ、愛のない張本人であるだけに、愛のない冷たさというものを感じるときがある、というだけのことである。



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